77: ◆wsnmryEd4g[saga]
2020/10/18(日) 11:38:41.20 ID:iX/HvtXE0
「あっ」
一階のロビーの隅に紗枝ちゃんの姿を見とめた瞬間、すぐに異変に気がついた。
私は歩き出しかけた足を不安定な姿勢で支えながらその場に踏みとどまった。
大理石の玄関ホールは音がよく響いた――私の足音が彼女に聞こえないはずがなかった、それに先ほど発した「あ」という声も――しかし彼女はガラス壁の向こうの景色をじっと見つめたまま私の方を振り向こうともしなかった。
私は深呼吸し、気持ちを落ち着かせた。
それから絞首台に向かう囚人のようにゆっくりと歩き出し、彼女の横に並んで立った。
「紗枝ちゃん」
私の声は緊張で震えていた。
彼女は何も答えなかった。
沈黙が嵐のように私の心をかき乱した。
彼女に許しを乞わなくては――私はそんな焦りから咄嗟に口を開いた。
が、舌はひりついた空気に焼かれたように麻痺していて、代わりにかすれた呼吸が虚しく吹いただけだった。
「……雨、降られてもうたなぁ」
ほとんど聞き取れないくらいの小声でようやく紗枝ちゃんが呟いた。
私は慌てて鞄から折り畳み傘を差し出した。
しかし彼女は相変わらず私の存在を脇に置いたまま外を眺めやっていた。
ビルの表通りは滝のような雨の中に夜の火を灯している……紗枝ちゃんはそうして雨の底に沈みゆく都会を、そこに時々行き来する人々の姿を軽蔑するように見下ろし続けていた。少なくとも私にはそう見えた……あるいは彼女が、その神のように気まぐれな怒りから街の全てを海の底に沈めようとして、そのためにこの絶望の黒い雨を降らせているかのようだった。
「次のお仕事はうまくいくとええなぁ?」
彼女が再び独り言のように呟いた。
空調の音にかき消されそうなくらい小さな声だった。
しかし私を屈服させ、魂を支配するにはそれだけで十分だということを彼女は知っていた。
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