【Another】恒一「……中村青司?」

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24 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:46:06.09 ID:qJudscWY0
「夜見山に建てる時点で自分は住めないから、もともとそういうつもりだったんだと思う。それに、霧果のおかげで上手くいったから、そのお礼って意味合いもあったのかもね」

「じゃあ、霧果さんがこういう構造でリクエストしたんだ?」

「そう。ギャラリーと工房がメインで、見てくれや住むところは二の次。霧果らしいでしょ」

ぼくは以前に一度だけ、霧果さんと顔を合わせたことがある。
鳴と似通っている部分が確かにありながら、より一層人形を思わせる無感情な面立ち。

確かに、この無機質と言ってもいい外観と、重なるところがあるかもしれない。

「だから、住む分には大変なところもあるけどね。……わたしの部屋って、どこにあると思う?」

「見崎の部屋?」ぼくはまだ入ったことはない。当然だけど。「三階、とか? リビングもあるし」

「やっぱりそう思うよね。でも、正解は二階。――外の階段を使って二階の入口から入るとね、入ってすぐは三和土になってて、そこを上がると両側にドアがあるの。右側がわたしの部屋で、左側が霧果の工房」

「へえ、そうだったんだ」

「入口から近いのはいいけど、ご飯を食べるにも毎回階段を登らないといけないし、たまに工房のお客さんが間違えて部屋に入ってきちゃうし……」

そう言って、指折り数えて難点を挙げていく。
不満はなかなかに多いようだ。
25 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:46:56.89 ID:qJudscWY0
「でも、霧果さんの工房が向かいにあるって、ちょっと羨ましいかも。すぐ見に行けてさ」

「……わたし、霧果の工房にはめったに入らないよ」

「そうなの?」

「べつに、普通に暮らす分には入る必要、ないから。邪魔もしたくないし。最後に入ったのなんて、もう何年も前」

「霧果さんの方は? 見崎の部屋に様子を見に来たりとかって、ありそうだけど」 

「全然。そういうの本当に気にしないよ、霧果は。工房で人形を創っていられれば、それでいいって人だから」

つまり、お互いに目と鼻の先に居ながらにして、行き来は全くないということらしい。

「でも、気になったりしない? 霧果さんが今、何を創ってるのか……とか」

鳴も、霧果さんの人形に悪感情を持っているわけではなかったはずだ。
時折こうして彼女が地下展示室を訪れる理由も、「嫌いじゃないから」なのだし。

「ならないって言ったら嘘になるけど……でもね、入るべきじゃないって気持ちの方が強いかな」

そう言って、鳴は地下展示室のあちこちに立つ人形たちを見回す。

「霧果がどんなに想いを込めて創っても、この子たちはまだ、こんなにも空っぽなの。だから、まだ完成してない人形なんてきっと……」

「――あまりにも、虚ろすぎる?」

ぼくが言葉を継ぐと、ゆっくりと鳴は頷いた。

「……たぶんね。あれだけ自分自身を注ぎ込んで、涸れ果ててしまわないあの人が不思議」

胸の辺りで祈るようにして両手を合わせ、指先をじっと見つめながら鳴は言う。

「そうして創られた人形で、この家は埋め尽くされてるの。……だからやっぱり、"夜見山の人形館"はお父さんのものじゃなくて、ほとんど霧果のものっていうのが適切かな」
26 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:47:35.90 ID:qJudscWY0
「夜見山の人形館?」

「知らない? ここの名前、<夜見のたそがれの……。>って、長くて言いにくいし、名前を知らない人もいるから、この辺の人たちはみんなそう呼んでる」

……知らなかった。
そうは言っても、ぼくにとってここは「鳴の家」だし、これからも使う機会はないかもしれない。

「……人形館、か……」

ここを目にした人が抱く印象は、やはり人形だということだろう。
当然、そこに「誰がこの家を設計したのか」なんて疑問が浮かぶことはない。
鳴の父親が、わざわざその中村青司に依頼した甲斐は果たしてあったのか、そんな気もしてしまう。

「……きみのお父さんは、それで良かったのかな。せっかく依頼を受けてもらえたのに」

「たぶん、だけど……途中から、中村青司に家を建ててもらうことそのものが、目的になってたのかもね」

彼に拒絶され悪戦苦闘しているうちに、それ自体が目的になってしまったということか。
そういうことも、確かにあるかもしれない。ぼくだってそんな経験はある。

「それを達成して満足したのと……あとは、下心とか」

「霧果さんに対して、ってこと?」
27 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:48:13.35 ID:qJudscWY0
「そう。お父さんにしてみれば、霧果へのいいアピールになった、ってところね。……ひょっとして、普段の仕事でもこういうやり方、よくしてるんじゃないかって思ったり」

そういう側面があるのは事実かもしれないが、あまりに身も蓋もない鳴の言いように、思わず苦笑してしまいそうになる。
何もそこまでバッサリ切り捨てなくても……とは思うが、ぼくが口を挟むべきことでもない。

「わたしに対しても、帰ってくるなり別荘に連れ出して、その上自転車の練習に誘って、って……どうもね。父親としてこなすべきことを効率よく片付けてるって感じ」

うんざりとした様子で、鳴は肩をすくめ、

「可愛がってくれているのは分かるし、迷惑だって言い切るつもりもない。だけど、やっぱり……」

そこまで言いかけたところで言葉を切り、ため息をつく。
その後も続きを話し出す気配はなく、どうやらこの話はこれで終わりということらしい。

けれどぼくには、鳴が呑み込んだ言葉がなんとなく想像できた。
きっと、「だけど、やっぱり……」の後は、こう続いたはずだ。


――やっぱりわたしは、本当の娘じゃないから。
28 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:49:13.88 ID:qJudscWY0


さっきも触れたことだが、霧果さんは鳴の本当の母親ではない。
なら、誰がそうなのかと言えば……霧果さんの双子の妹・藤岡美津代さんがそうなのだ。

むろんぼくも、鳴にそんな事情があると知ったのはつい最近の話。
あの合宿の夜に本人の口からそう聞くまでは、彼女と霧果さんの関係を疑うこともなかった。

鳴はもともと、美津代さんとその夫である藤岡さん夫婦の間に生まれた。
藤岡未咲と共に、双子として。
二人は二卵性双生児だが、とてもよく似ていたらしい。
少なくとも、鳴が彼女を「自分の半身」と形容するくらいには、そうだったのだろう。

……そういえば、美津代さんと由紀代(霧果)さんも、同じように二卵性双生児で、やはりよく似ていたという話だ。

その霧果さんも、紅太郎さんと結婚して子供を身ごもったが……結果は死産。
加えて、それが原因で霧果さんは二度と子供を産めない体になってしまう。
霧果さんの悲しみは相当なものだったらしい。
それこそ、そのままでは正気を失ってしまいそうなほどに。

一方藤岡さん夫婦は、二人の子供を育てることに経済的な不安を感じていた。
奇しくも、双子の間で需要と供給がぴったり釣り合って――これは鳴の言葉だ――そして。

その結果、鳴は二歳の時に見崎家に養子に出されることとなり、今に至る。

鳴の両親に対するどこか他人行儀な態度は、このあたりの事情に端を発しているのだろう。
大人の都合で本当の両親から引き離された本人にしてみれば、自分は死んでしまった子供の代用品という思いを拭えないでいるに違いない。
29 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:49:48.40 ID:qJudscWY0
そして、そうまでして保った均衡も、今年で壊れてしまった。
藤岡未咲が、亡くなってしまったのだ。

腎臓の重い病気を患った彼女は、母親である美津代さんから腎臓移植の手術を受けたという。
結果は成功。経過が安定したのを見計らい、東京の大きな病院から夜見山の市立病院に戻ってきていたのだが……。

様態が急変し、彼女が命を落としたのは四月も終わりのころ。
そう、今年の<災厄>による四月の、そして最初の犠牲者が彼女だった。

――親御さんがすごく取り乱して、大変だったとか。

水野さんが、そんな風に言っていたことを思い出す。
彼女の両親は当然のこと、鳴の悲しみも相当なものだったはずだ。
お互い親には内緒でこっそり会っていた、なんてことも言っていたし、とても仲が良かったことは間違いない。

とにかく、そんな出来事があって……。
今では、霧果さんと美津代さんの立場が逆転してしまっている。

もちろん、じゃあ今度は鳴をもとの両親のところに戻して……なんてことは馬鹿げているし、そんな単純な話でもない。
それは分かっているのだが、それでも両家の関係はなんともいびつだ。
30 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:50:30.21 ID:qJudscWY0
――会いたいって、思ったよ。

本当の両親である美津代さん夫婦について、以前に鳴はこう言っていた。
しかし、霧果さんは鳴が彼女に接近することを極端に嫌い、そして恐れている。

それ以外のことに関しては、基本的に霧果さんは放任主義だという。
鳴がその気になれば、いくらでも彼女には秘密にして会いに行くことは難しくないはずだ。
それなのにそうしないのは、きっと霧果さんに対してもまた、割り切れない感情が鳴にはあるからで……。

当の鳴は、肘掛けの一方にもたれかかるようにして人形たちを眺めている。
そもそもの目的であったここでの気分転換に、改めて戻ったということだろうか。

それにしてはなんだか、思いつめたような表情をしているのがぼくには気にかかる。
鳴にしてみれば、さっきのことはただ単に話の流れでそう口にしかけただけのことで、ぼくがあれこれ気にすることもないんだろうけど……。
それでもこの空気は、やっぱり少し辛い。
――よし。

「あのさ」

沈黙を避けようとぼくがそう声にしたのと、

「あのね」

まるで意を決したかのように鳴が言葉を発したのは、ほぼ同時だった。

「あ……ごめん。何だった? 先に話していいよ」
31 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:51:00.64 ID:qJudscWY0
すぐにそう言ったものの、鳴はただ首を横に振る。
どこか、安堵しているようにも見える表情だった。

「別にいい。榊原くんが話して。……それに、あんまり大したことでもないし」

今ので気勢を削がれてしまった、ということらしい。
たぶん、これ以上はぼくがいくら促そうとも無駄だろう。

ぼくは仕方なく、言いかけていたことの続きを口にした。
とはいえ、こっちもこっちで大したことではないのだけれど。

「えっと……夏に見崎が行ってた別荘、あったよね。あれもひょっとして、きみのお父さんが中村青司に建ててもらったもの?」

この質問に、深い意味はなかった。
ただ、ちょっと暗い方向に傾きかけたこの場の雰囲気を変える話題として、ふと思いついただけのこと。

そしてぼくの狙い通りと言うべきか、「ああ」と返事をする鳴の表情からは、さっきまでの憂いの色は消えていて。
それは良かったのだけど……鳴の答えは、予想していないものだった。

「あそこは違うの。……中村青司が建てたのは、この家だけ」

「あれ、そうなんだ?」
32 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:52:04.39 ID:qJudscWY0
「お父さんは、別荘も中村青司に依頼するつもりだったのかもしれないけど……その前に、彼が亡くなってしまったから」

「亡くなった? それは、病気か何かで?」

小さく首を振る鳴。

「わたしたちがまだ小さいころの話で、あまり詳しくは知らないけど……殺人事件だったみたい」

「……え?」

ぞくりと、背中を冷たいものが通った。
それまで意識すらしていなかった、地下展示室の空調の低く唸るような駆動音が、急にうるさく感じられる。
それでも鳴の口調は、いつも通りの淡々としたもので。

「中村青司とその妻、それから、住み込みの使用人も殺されてしまって、ワイドショーやニュースでも大きく取り上げられてたって」

ずうぅぅぅーん……。

空調の音はいつの間にか、聴き覚えのあるあの重低音へと変わっていた。
手術で完治した肺に忘れたはずの息苦しさを覚え、胸の辺りを押さえたくなったが、なんとかこらえる。

「……だから、お父さんは依頼できなかったの」

そんなぼくをよそに、鳴は話をこう結ぶ。

頭の中で反響する重低音は、当分消えてくれそうもなかった。
33 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:52:38.32 ID:qJudscWY0


ひとしきり話し終わった鳴は「んっ」と軽く喉を鳴らす。

「喉渇いたし、何か上で飲まない?」

「……ああ、うん。でも、いいの?」

「言ったでしょ、暇なの。それに『何か』って言っても、出てくるのはいつもの紅茶だし」

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

正直、ありがたい申し出だった。このままここにいたら、具合が悪くなっていたかも……。

――ひょっとして、ぼくに気を遣ってくれた、ということだろうか?

だとしたら……ううむ、ちょっと情けない。
椅子から立ち上がり、二人で奥のエレベーターに向かった。

初めてここに来た人は、エレベーターがあることに気づかないかもしれない。
地下室展示室の奥に、こちらに背を向けて立っている一際大きな陳列棚がある。
その更に向こう側、カーテンの奥がエレベーターホールになっているのだ。
34 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:53:14.75 ID:qJudscWY0
そして、陳列棚とカーテンの間、そのスペースにあるのが……
例の、棺に入った鳴そっくりの人形だ。
こうして間近で見るのは久しぶりだけど、いつ見ても本人に――というのは鳴にすれば不適切なんだろうけど――似ている。
人形なだけあって、流石に背丈は鳴よりふた回りは小さいし、髪も肩より下まで伸びているけど……何より顔が鳴そのものだ。

それから……その右目には、鳴のあの<人形の目>と同じ、蒼色の瞳。
長い髪に隠れて今は見えない左目にも、同じ輝きがあることをぼくは知っている。

見慣れているのだろう、鳴はまるで気にした様子もなく棺の横を通り抜け、カーテンの向こう側に消えていく。
立ち止まるわけにもいかず、ぼくも人形を眺めるのはそこそこに、カーテンに手をかけ、その向こうに……。
――と、その時。

「……?」

ふと、違和感を覚えた。
自分でも、何に対してそう感じたのか分からないまま、動きが止まる。
何だ?
一体、何が引っかかったんだ?

……人形?

棺の中を覗き込んだ。
蒼白いドレスに身を包んだ人形が、こちらを見つめている。
それは以前、初めてここを訪れた時のものと、全く同じ。

違う。
人形じゃない。

じゃあ、何が……。

「どうしたの?」
35 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:53:54.53 ID:qJudscWY0
カーテン越しに、鳴の声が聴こえてきた。

「……ごめん、何でもない。すぐ行くよ」

それ以上は諦め、カーテンをくぐることにする。
エレベーターホールは、ちょうど床の形が正方形で、向かって正面と右手側にはむき出しのコンクリートの壁がある。
そして左手側にあるエレベーターの中から、鳴が不思議そうにぼくの方を見ていた。
薄暗い地下展示室の中では、エレベーター内の白い照明は眩しいくらいだ。

ぼくが早足でエレベーターに乗り込むと同時に、鳴が「3」のボタンを押した。
扉が閉まり、直後に全身が浮遊感に包まれる。

……毎度のことだけど、この感覚はどうも好きになれない。
もともとぼくが苦手だったということもあるけど、それが決定的になったのは……たぶん、水野さんが巻き込まれた事故から、だろう。
あれが<災厄>によって引き起こされた、通常起こりえないような事故だということは、頭の中では分かってはいるけれど……。
それでもやっぱり、エレベーターに乗るたびそのことを思い出してしまうのも事実だ。
そのうちこの小さな箱が、まるで棺の中のように思えてきて……。

――棺。

そうだ、棺だ。
違和感の正体が、ようやく分かった。

棺がひとつ、消えていたのだ。
確か、あの鳴の人形が入った棺のあるスペースには、棺がふたつ置かれていたはずだ。
色も大きさも全く同じ棺がもうひとつ、背中合わせになって。
36 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:54:43.12 ID:qJudscWY0


――新しい人形が、この中に納められるみたい。

ぼくがそれを見たのは、夏休みのある日のことだった。
そう言った鳴の言葉通り、棺の中は空っぽで……代わりに、鳴がそこにいた。
鳴は<人形の目>――その「うつろなる蒼き瞳」でぼくを見つめ、

――安心して。榊原くんは<死者>じゃないから。

そう、ぼくに告げた。
自分こそが<死者>ではないのか、そんな疑念を捨てきれずにいたぼくを、勇気づけるように。


無くなっていたのは、その空の棺の方だ。
すると……「新しい人形」が、いよいよ完成するのかもしれない。
そのために、霧果さんが工房に棺を持っていった、とか。

一階のギャラリーか、それとも地下展示室か。それは分からないけれど、近いうちに飾られるということだろう。
霧果さんの人形に心惹かれている身としてはやはり、そうなったら見に行かないとな、という気になる。
……別に、またここを訪問するちょうどいい口実ができたと喜んでいるわけではない。決して。

そんなことを思っている間に、エレベーターは三階に到着した。
37 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:55:38.15 ID:qJudscWY0


「どうぞ」

鳴から缶のレモンティーを受け取り、それぞれ手近なソファに腰を下ろす。
この家の三階、相変わらずモノがないリビング兼ダイニングキッチンは「寒々とした」なんて表現をしてしまいそうだが、
あの薄暗い地下から上がってきたぼくにしてみれば、ここは人の温もりを感じる憩いの場だ。

「いただきます」と鳴に向かって軽く缶を掲げてから、プルトップを開けて一口飲む。
それだけで、先程までの不安や不調はすっかりと洗い流されていく。

そうしてまさしくぼくが一息ついたところで、「落ち着いた?」と鳴に問われ、思わずぎくりとした。

見れば、鳴は紅茶を口にせず、ずっとぼくの様子を窺っていたらしい。

――やっぱり、バレていたのか。

見栄を張ってやせ我慢した甲斐がなかったと知り、肩をすくめたくなる。

「ごめん、もう大丈夫だから」

「ううん、この前と今日とで、そういう話が続いちゃったものね」そう言って、ようやく紅茶を口に運ぶ。「いくら榊原くんが慣れたって言っても……」

「確かに、いきなりああいう話になって、ちょっと驚いた部分はあったかな」
38 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:56:39.75 ID:qJudscWY0
鳴は小さく頷き、それからまた紅茶を一口飲んで、ぽつりと言った。

「もうこの話、おしまいにしよっか」

「もうって……まだ続きがあったの?」

「ないわけじゃないけど……でも、そこまで面白くもないかもしれないし」

そう言って眼帯を隠すように、ぽん、と左手を顔に当てる。

「うーん、そういう風に言われるとなあ」

「気になる?」

「そりゃあ、ね」

ひと心地ついたからだろう、改めて興味を取り戻す程度には余裕が出てきていた。
調子がいいなと言われてしまえば、それまでであるが。

「それならそれでもいいけど……もう少し休んでからかな」

缶を置いて、くっと伸びをする鳴。
そして、こう続けた。

「続きを話すにしても、どうせだったら下のほうがいいし」

「そうなの?」

「いろいろと、都合がいいから。……だから、無理しなくてもいいけど?」

また地下展示室に行くことになるが大丈夫なのか、ということなのだろう。
心配には及ばないと伝えると、鳴は頷き「じゃあ、もう少しゆっくりしてからね」と言うのだった。
39 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:57:26.69 ID:qJudscWY0


それからリビングでしばらくの間、学校の話とか最近読んだ小説の話とか、そういう他愛もない会話を続けて二十分ほど経ったころ。
奥のドアが開き、霧果さんが入ってきた。

以前会った時の霧果さんは、飾り気のない服装で頭にはバンダナを巻き、いかにも「作業の途中」といった感じでここにやって来た、という記憶がある。
しかし今日の彼女は両耳にイヤリングを着け、薄く化粧もしているようだった。
服装こそ変わらず落ち着いたものだったけど、全体的に「よそ行き」の雰囲気を漂わせている。
そういえば今日は工房が休みという話だったし、どこかへ出かける用事でもあったのかもしれない。

霧果さんは、ぼくの姿を認めたかと思うと「あら」という声を出して、その動きを止めた。

「……えっと、あなたは……」

ぼくも慌てて立ち上がって挨拶する。

「すいません、その……お邪魔してました」

霧果さんは無言のまま、困惑しきった表情を浮かべている。
すっ、とその視線が助けを求めるように鳴に向かうのとほぼ同時に、鳴が口を開いた。

「同じクラスの榊原くん。結構前にも一度、来てもらったことがあって」

それを聞いて、霧果さんはようやく合点がいったというように「ああ、そうだったの」と表情を和らげる。

「鳴のお友達ね。……榊原くん、だったかしら? ごめんなさいね」

「いや、ぼくの方こそ挨拶もなしに……」

何度か電話で話をしたとはいえ、霧果さんと直接顔を合わせたのは半年前の一度きりだし、その時にしたってぼくはすぐに帰ってしまったのだ。
覚えていなくても無理はない。
40 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:58:02.50 ID:qJudscWY0
「……お母さん、ここで何かするつもりだった?」

「そろそろご飯の準備をしようかと思ってたんだけど……でも、今はお邪魔みたいね」

そう言われて時計を見れば、ちょうど四時を回ったところだった。
この家に来てから一時間は経っていないはずだけど、そもそも訪れた時間も遅かったのだ。
鳴の言う話の続きも気になったが、そろそろ帰るべきかもしれない。

そう思い、帰る旨を伝えようとしたのだが、鳴が「榊原くん」と言う方が早かった。

「下、行こっか」

「えっ?」

「続き。――気になるんでしょ?」

「あ、うん……でも」

ぼくが答えに戸惑う間にも鳴は立ち上がり、奥の扉へてくてくと歩いていく。
有無を言わせないその様子に、ぼくもただ彼女についていくしかない。

ドアを開けたところで「ここ空けるから、使っていいよ」とだけ母親に告げ、鳴はそのまま先へ行ってしまう。

「ごめんなさいねえ、なんだか追い出したみたいになっちゃって。ゆっくりしていってね」

申し訳なさそうに微笑む霧果さんにぎこちなく会釈をして、鳴の後を追った。
41 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:58:42.56 ID:qJudscWY0


廊下を出ると、少し進んだ先に鳴がいた。
体は前に向けたまま、首だけをこちらに向け、ぼくが追いつくのを待っている様子だ。
ぼくが来たことを認めると、鳴はまたぷいと前を向き、奥のエレベーターへと歩いていってしまう。

「ちょっと、見崎」

思わず呼び止めると、鳴は足を止めて再び顔をこちらに向け、不思議そうな表情で、

「どうかした?」と訊いてくる。

少し、引っかっていることがあった。
問題は、果たしてそれをぼくの方から尋ねてもいいものか。

一瞬迷ったが、結局、

「いや……置いていかれそうだったから」

と、言葉を濁すだけにして、そのまま近くまで歩み寄る。
鳴もそれで納得したのか、軽く頷いただけだった。

エレベーターは既に三階に止まっており、すぐ乗り込むことができた。
霧果さんが、リビングに来る時に使ったのだろう。お互いに口を開くこともなく、再び降下する。

沈黙だけが詰まった棺の中で、ぼくは先程訊けなかった問いを思い出していた。
それはついさっき、三階で目にしたやりとりについて。

どこかぶっきらぼうな鳴と、それでもなお、愛想よく振る舞う母親。

……別に、年頃の娘がいる家庭では、これが普通のやりとりなのかもしれない。
でも、だからこそ、ぼくにはそれが引っかかったのだ。
42 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 01:59:17.56 ID:qJudscWY0
以前ぼくが霧果さんと出会った時も、今日のように三階でぼくと鳴が話しているところに彼女はやって来た。
その時の鳴と霧果さんのやりとりは、今でもよく覚えている。

自分の母親に「ですます調」を使って話す鳴。
それを気にとめるでもなく、やはりフレンドリーではあるけど、鳴に対してはどこか言葉少なげな霧果さん。
いずれにせよ、今日の二人の会話と比べるとひどく他人行儀なものだった。

それについて鳴は「仕方ない」と言うのだった。「わたしとあの人は、ずっとあんな感じ」とも。
きっと、その原因は二人の抱える秘密――本当の親子ではない――にあるのだろう。

……だとしたら、それを鳴が知る前はどうだったのだろう?

鳴が秘密を知るに至ったのは、ある時天根さんが口を滑らせてしまったからで、つまりはアクシデントだ。
秘密をずっと隠し通したかったであろう霧果さんは、ものすごく慌てていたらしい。

つまり、その出来事さえなければ、鳴が自分の母親に疑念を持つこともなかったのだろう。
ならばそうなる前の二人は、もっと普通の親子だったんじゃないだろうか。
それこそ今日、ぼくが目にしたように。

もともと、そうであった期間の方が長い二人。
何かのきっかけで、元に戻るということもあるのかもしれない。

……それともまさか、前にぼくから口調について問われたことを、意外にも鳴は気にしていたのだろうか。

いつもと変わらぬ様子でぼくの隣に立つ鳴を見やり、さすがにそれはないな、と思い直す。
43 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:00:08.76 ID:qJudscWY0
何にせよ、ぼくがあれこれ考えても仕方ないことだ。
変化の理由も、それから……何が普通か、なんてことも。

ぼくの母親は産まれてまもなく亡くなってしまったし、
父親にしても、あれが「普通の父親」という枠をはみ出していることくらいは、ぼくでも分かる。
だからぼくに、普通の親子のやりとりがどんなものか、なんて決められるはずもなく。

……ぼくにとっての「母親とのやりとり」とは、この夏までの怜子さんとの生活が、あるいはそうだったのかもしれない。
だけど、それもいずれは忘れてしまう。

エレベーターが止まり、扉が開いた。
パネルの近くに立っていた鳴が「開」のボタンを押し、先に降りるようぼくに目で促す。

――語るすべを持たないことに頭を悩ませるのは、ひとまずやめにしよう。

鳴に向かって軽く頷き、ぼくは再び地下展示室へと足を踏み入れた。
44 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:00:38.73 ID:qJudscWY0
10

それから数分後。
この家の三階、エレベーターの前にぼくはいた。
廊下の奥、リビングに通じるドアの向こうからは、霧果さんが料理をしているのだろう、とんとんとリズムよく包丁の音が聞こえてきている。

……さっき地下にいたはずのぼくが、どうしてここにいるかって?
どうしてなのかは、ぼくにもさっぱり分からない。
きっと、それを知っているのは鳴だけだろう。
45 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:01:38.20 ID:qJudscWY0


――地下に戻ると鳴は、例の自分そっくりの人形が入った棺の前で足を止め、その中に目を落とした。
ぼくもつられて人形を見る。
当然、ぼくらが上へ行く前と何も変わらぬ佇まいで"彼女"はそこにいた。

ここに来た目的であるはずの話の続きが始まる様子もないまま、しばらく二人でそうしていたぼくらであったが、
鳴がおもむろに右手を伸ばし、人形の頬に触れた。そして、ゆっくりとその頬を撫でる。
まるで赤ん坊をあやすかのような、優しい手つきで。

「この子とも、もうすぐお別れね」

手の動きは止めないまま、独り言のように鳴が言う。

「……見崎?」

真意を図りかねたぼくの言葉には応じないまま、不意に彼女の手の動きが止まる。
ややあって、脱力したようにだらりと垂れる右手。

かと思えば側に立てかけられていた蓋をやおら持ち上げ、ぱたん、と棺を閉めると、鳴はこんなことを言い出した。

「今の、見たよね?」

「は?」

あまりにも唐突な言葉に、思わず面食らう。何を言われたのかすら、理解に時間を要した。
数拍の間を置いて、ようやくそれがぼくへの問いかけであると気づく。

「見た、って……人形の棺に、見崎が蓋を閉めたよね。そのこと?」

それを聞いた鳴はただ「うん」とだけ頷き、更に意味不明なことを言う。

「じゃあ榊原くん。少しの間、上に戻っててもらえる?」

「上?」
46 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:02:22.03 ID:qJudscWY0
今まさに降りてきたばかりなのに、また上に? しかもぼくだけ?
状況が飲み込めないぼくに、鳴はこともなげに頷く。

「榊原くんには、今のを見ていて欲しかったの。後はわたしだけで準備をしたいから、さっきのリビングで待ってて。終わったら呼びに行く」

「リビングって言ってもさ……それに、準備って」

そもそも今、あそこでは霧果さんが料理をしているんじゃなかったか。

「そんなに時間はかからないと思う。……だから」

質問は認めませんと言わんばかりに「さあ行った行った」という手振りの鳴。
わけが分からないうちに、エレベーターの前まで追いやられるぼく。

……結局、今は鳴の言う通りにするしかないだろうと判断して、ぼくは一人エレベーターに乗り込んだ。
鳴に見送られながら、である。

ぼくがいなくなるまで、その「準備」をするつもりもないのだろう、最後まで鳴はエレベーターの前を離れなかった。
ドアが閉まる直前、

「ちゃんと上で待ってないとだめ、だからね」

なんて、しっかり念を押すことも忘れずに。
47 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:02:55.75 ID:qJudscWY0


それが、さっき地下であったことの全て。
そうして再びぼくが三階に戻ってきたのが、今というわけだ。

腕時計に目を落とす。
あれから五分が経ったけど、エレベーターの階数表示はぼくが乗った後から変わらず「3」のまま。

ふう、とため息をひとつついて、今度はリビングに通じるドアを見やる。
包丁の音が止み、冷蔵庫を開け閉めする音や水の流れる音がしたかと思えば、また包丁の音。
色々な音が絶え間なく聞こえてきて、その向こうで忙しなく動き回っているであろう霧果さんの姿が目に浮かぶ。

そんな中に入っていって鳴を待つというのは、やっぱり気まずい。
「そんなに時間はかからない」と言っていたことだし、このままここで待っていてしまおう。
そう考えて、ぼくはまたエレベーターとのにらめっこに戻った。
48 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:03:47.56 ID:qJudscWY0
それから、更に五分後。
状況に変化はなく、鳴が戻ってくる様子もない。
時計の針は、ちょうど四時二十分を指したところだった。

……正直なところ、そろそろ焦れてきた。
さすがにもう少しで戻ってくると思いたいけれど、下で鳴が何をしているのか分からない以上、予測のしようもない。

鳴は、話の続きは地下の方が都合がいい、と言っていた。
資料とか写真とか、そういうものを準備するだけなら、わざわざ地下に行ったりぼくだけを遠ざけたりする必要もない。

じゃあ、鳴の言う準備とは、ぼくに見られると都合の悪い地下にある何か、ということなのか。
なのに一方で、棺に蓋を閉める場面については、ぼくに見ていて欲しかったらしい。
全く意図が読めない。

……結局、その「何か」がはっきりしない内は、いくら考えても同じところをぐるぐると回るしかない。
何度目かの「とにかく鳴を待とう」という結論に達したところで、また時計を見る。
あれこれ考えていたからこれで五分は経ったはずと期待していたけれど、実際に進んだのは二分と少しだけ。
これまた何度目かのため息をついた時、視界の端でドアが開き、エプロン姿の霧果さんが現れた。
49 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:04:36.11 ID:qJudscWY0
11

当然ながら、ぼくがいるとは思っていなかったのだろう。
ぼくを見るなり霧果さんは、何か珍しいものでも見つけたような、きょとんとした表情を浮かべた。

「鳴は? 確かさっき、二人で下に行くって……」

「そうなんですけど……その、よく分からないんですが見崎からここで待っているように言われてしまって……見崎は、下に」

説明になっていない説明だと、自分でも思う。
いきなりこんなことを言われたって、霧果さんの方こそわけが分からないはずだ。
だけど、本当にこの通りなのだからこう言うしかない。

案の定、霧果さんは「ふうん」と頷きつつも釈然としない顔をしている。

「ここで立ってて疲れない? あっちで座って待っていたら?」

「たぶん、もうすぐ戻ってくると思うので大丈夫です。……すみません、こんなに遅くまでお邪魔してしまって」

それを聞いた霧果さんの顔が「ふふ」とほころぶ。

「別にそういうつもりで言ったんじゃないのよ。大体、あの子が言い出したことなんでしょう? ……迷惑かもしれないけど、お相手してあげてね」

「いえ、そんなことは」と言いかけて、やっきになって否定するのもどうなんだ、と思い直した。
それにしても、いくらクラスメイトとはいえさほど親しくもない、しかも男子のぼくについて、霧果さんは何とも思っていないのだろうか。
鳴は、そういうところも霧果さんは放任主義だと言っていたけれど。
必要以上に警戒されるのもどうかと思うが、こうまで無警戒だと、他人事とはいえなんだか心配になってくる。
50 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:05:07.96 ID:qJudscWY0
「……鳴は、下にいるのよね」

もう一度、その事実を確認するように霧果さんが言う。
いつの間にか、その顔はいつもの無表情に戻っていた。

「えっと……はい、そのはずです」念の為、階数表示が変わっていないことを確かめてから答える。

彼女は一瞬、ためらうように視線を巡らせた後、意を決したように切り出した。

「あなたたちのクラス――夜見北の三年三組って、少し前に色々と大きな事故があったって話を聞いたの」

「え……」

思いがけない話題に、取り繕うことも出来ずに反応してしまう。

「担任の先生が亡くなったり、夏休みにあった合宿でも火事があったりで生徒さんも何人か亡くなったって……それは、本当?」

「……見崎からは、何も聞いていないんですか?」

霧果さんは首を横に振る。

「訊いたけど、教えてくれなかった。『もう大丈夫だから』って。……やっぱり、本当にあったことなの?」

実際に今年の<災厄>が終わった今となっては、もう危険がないのは事実であるし、
何より鳴にしてみれば、事実を教えた結果として霧果さんから必要以上に心配されるのが嫌なのだろう。
なんとも鳴らしい説明のしかただな、と思った。
51 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:06:19.79 ID:qJudscWY0
そして鳴が黙っているつもりなら、ぼくが勝手にそれを教えるべきではないのかもしれない。
だけど、ニュースや新聞で報じられている合宿の火災をはじめとしたいくつかの事故については、そもそも隠し通せることでもない。
今年三組を襲った<災厄>について、そのいくつかが既に霧果さんの知るところとなっているのも当然のことなのだ。

「どんな話を聞いているのかは知らないですけど、そういうことがあったのは……本当です」

だとしたら、はっきりしたことを伝えないのは、彼女の不安を募らせるだけだと感じた。
ぼくの父でさえ、合宿の後でぼくが入院した時にはひどく心配していたし、何も教えていなかったことについては散々怒られた。
あれだけのことがあったと知れば、心配するのは親として当然のことなんだろう。

それを聞いて、霧果さんが「やっぱり」と漏らす。

「合宿の事故については、後で学校から保護者の人を集めた上で詳しい説明があったって聞きました」祖母はその時入院中のぼくにつきっきりだったから、そこでどんな話があったのかぼくは知らない。「それには……?」

彼女はまたしてもかぶりを振る。

「それも、知らなかったわ。……ごめんなさい、知らないことばっかりで」

どことなく自嘲の色を帯びてきた口調に、どう返すべきか言葉に迷ってしまう。
沈黙が重くなる前に、思いつくままに言葉を並べた。

「でも、ここ最近はクラスも平和でようやく落ち着いてきましたし、だから見崎も大丈夫って言ったんだと思います」

「……そう。じゃあ、今さら私にあれこれ訊かれるのが、面倒だったのかしら」

「面倒というか……心配をかけたくなかったんじゃないでしょうか」ただ鳴の場合、心配されることそのものが面倒、という部分はあったのかもしれない。

「きっと、そうなんでしょうね。でも、良かった。もし鳴にまで何かあったら、私――」

そこまで言ったところで彼女は、しまった、という顔をして言葉を切る。

「ごめんなさい。クラスの中には、亡くなってしまった子もいるのよね。もしかしたら、あなたのお友達だって」

「……」

一瞬、ぼくの中で区切りをつけたはずの様々な感情がよみがえってきて、何も言えなくなってしまう。
52 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:07:01.35 ID:qJudscWY0
そう、四月から八月まで、何人もの人が死んだ。
<災厄>が止まっても、その事実まで元に戻ってくれる訳ではない。

千曳さんによれば、教師が<死者>として復活したのは、今回が初めてのことだったらしい。
その他にも今年は、不測の事態がいくつか重なっていて……。
<災厄>を未然に防ぐことは、おそらく不可能だったのだろう。
それは分かっているつもりだ。

けれど、ぼくはどうしても考えてしまう。
もっと早く、<災厄>を止める方法を知っていれば。
もっと早く、<死者>が誰かを知っていれば。
ここまでの犠牲を出さずに済んだのではないか。
そして怜子さんとも、もっと違う別れ方があったんじゃないか……と。

最近は思いを馳せることも少なくなっていた苦い後悔が、ぼくの胸に滲んでいた。

――鳴は、こうなるのが嫌だったのか。
そんなことを思った。
まとわりつく想いを振り払うように、口を開く。

「いえ、ぼくもそう思います。見崎が無事で、良かったって」
53 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:07:55.54 ID:qJudscWY0
これもまた、偽らざるぼくの本心だった。
ぼくや鳴にしても、<災厄>の犠牲にならなかったのはただ運が良かったからでしかない。

特に鳴の場合、自分の身の安全というものにどうにも無頓着なように思えて、ついやきもきしてしまう。
この前聞いた夏休みの話でも、実際に危険な目に遭っていたようだったし、
合宿の時だって、ぼくが電話しなければそのまま彼女はひとりで全てを終わらせていたはずだ。

だから、心配している人がいるということをもう少し考えてほしい……のだけど。
そんなことは、ぼくのわがままなんだろうな、きっと。

「……そうね。いろいろ教えてくれて、ありがとう。鳴と、仲良くしてあげて」

霧果さんが、淡く微笑んでそう言う。
「はい」とだけ言ってそれに頷いてから、急に気恥ずかしくなったぼくは、取ってつけたようにエレベーターに向き直った。
――と。

ちょうどその時、階数表示が「3」から「2」へと変わった。
それはそのまま「B1」までスライドして、少しだけ間を置いて今度は逆に動き出す。

そして再び「3」になり、中から鳴がようやく姿を見せる。
時刻は、四時三十分になっていた。
54 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:08:44.09 ID:qJudscWY0
12

ぼくと目が合うなり、鳴は、

「ここで待ってたんだ」

とだけ言って、エレベーターを降りた。
ぼくや霧果さんが二人してこんなところにいてびっくりするかと思ったが、そんなことはないらしい。

ふと、鳴の髪に小さな埃がくっついているのに気がついた。
髪だけじゃなく、服にもところどころ埃が付着していて、彼女が黒い服を着ているせいかそれはよく目立つ。
ぼくと同じくそれに気づいたとみえる霧果さんが何かを言いかけたものの、ぼくの前でそれを咎めることを思いとどまったのか、何も言わなかった。

――いったい、下で何をしていたんだ?

とにかく頷いたぼくに、鳴は続ける。

「準備、終わったよ。……行こっか」

「えっ、もう?」

いきなりか。
さっきまで散々鳴を待ちわびていたというのに、いざそう言われるとなんだか気後れしてしまうのが不思議だ。
鳴がボタンを押し、そしてまたエレベーターの扉が開く。
なんとなく霧果さんの方を見たが、さっきの微笑みのまま「どうぞ」というように軽く頷かれただけだった。

まあでも、話の続きが聞きたかったことは間違いないし、
それにこのまま、ここで三人で立ち話、というわけにもいかないだろう。
――行くか。

そう思って足を踏み出した途端、ごごごご……という地鳴りのような音が、びりびりと空気を振動させながら伝わってきた。
55 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:09:25.89 ID:qJudscWY0
「あら、雷かしら」

霧果さんがリビングのドアを振り返って言う。

そういえば、今日は夕方から雨の予報じゃなかっただろうか。
家を出た時はまだ晴れていたから、傘は持ってきていない。
仮に雨が降っていたとして、今さら慌てて帰るなんてことにはならないけれど、それでも外の様子が無性に気になった。

「ごめん、見崎。下に行く前に、雨が降っているかどうかだけ確認したいんだけど。――いいですか?」

鳴は無言で、霧果さんは「ええ」と言いながら、小さく頷く。
そんな何気ない仕草ひとつをとっても、やはり二人はよく似ていた。
56 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:10:03.99 ID:qJudscWY0
13

リビングの奥にある窓から、外を見る。
思った以上に外は薄暗くなっていた。
夏休みのころに比べたら、だいぶ日が短くなったと改めて思う。
雨こそまだ降っていなかったが、空は暗い色をした雲に覆われ、いつ降り出してもおかしくない。

窓ガラスに顔を寄せるぼくの眼前で、不意に遠くの雲がチカチカと明滅し、そして再び空気が震えた。
雷はどうやら、この近くで鳴っているわけではないらしい。
とはいえ、話の続きが終わったら流石に帰るべきだろう。

そんなことを考えながら外を眺めていると、視界の下の方から影が現れた。

「――ん?」

半ば反射的に、視線がそちらを向く。
リュックを背負った人影が、目の前の道路を歩いていた。
薄暗くてあまりよく分からないが、歩き方や服装からして男だろうか。
全体的にすらりとした印象で、おそらく身長もそれなりにありそうな感じだったけれど、
ここからは見下ろすアングルになるため、どうもはっきりしない。

いや、それよりも。

――今この人、ここの入口から出てこなかったか?
57 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:11:03.66 ID:qJudscWY0
注意して見ていたわけじゃないから、自信を持っては言えない。
だけど、さっきまでこの道を歩いている人は一見していなかったはずだ。
それがこうして、いきなり現れた。しかも足元から。

ギャラリーを訪れていたのだろうか?
そういえば、ぼくがここに来てから、鳴は結局入口の鍵をどうしたのだろう。
鍵の話をしたものの、ぼくらはそのまま三階に上がってしまったから、
準備のために戻った鳴がずっと地下にいたのだとすれば、鍵はまだ開いたままなんじゃないか?

それで、あの人もぼくと同じく閉館とは知らずに入ったけど、人の気配がなくて帰ることにした、とかなのだろうか。

男はそのまま、ぼくから見て右へと歩いていく。
そうして丁字路にさしかかったところで、急に立ち止まり、こちらを振り返った。

目が合った、と感じた。
暗い上に距離もあるから、それがはっきりと分かったわけではない。
だけど、振り向いたその顔はぼくの方へとまっすぐ向けられている。

男はそれから、顔に手をやる。
庇を作るとでもいうのか、こちらをよく見ようとしているような動きだった。

考えてみれば、向こうからは明かりの点いたリビングの窓も、その前に立っているぼくのことも、よく見えているはずだ。
ぼくからは見えない。
でも、あっちからは見えている。……見られている。
58 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:11:59.24 ID:qJudscWY0
それに気づいた途端、まるで周囲の温度が急に二、三度下がったような寒気を覚えた。
なのに、ぼくは窓から離れることも、輪郭すらあやふやなその顔から視線をはずすこともできない。
明るいはずの室内はどんどん暗くなっていき、代わりに男の姿は闇の中でぼうっと浮かび上がってくる。
そのうち、ぼくらを隔てていた窓ガラスも消え失せ、暗闇の中、ぼくとその男だけが――。

「雨、降ってなかったんだ」

すぐそばで聞こえた鳴の声で、急速に感覚が引き戻された。
いつの間にか、隣に立っていたらしい。

「でもやっぱり、天気はあんまりよくないね。……帰る? それでもいいよ」

「……いや、大丈夫だよ。行こう」

そう返して、ぼくは最後にもう一度、男が立っていた場所に目をやる。
そこにはもう、誰の姿もなかった。
59 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:12:50.82 ID:qJudscWY0
14

「結局、さっきの『準備』ってなにをやってたの」

「秘密」

「秘密って……話の続きで、ここに戻ってきたんだよね? それと関係があるんじゃ?」

「もちろんそう。でも、まだそのタイミングじゃないってこと。後でちゃんと教えるから、安心して」

ようやく、というべきか。
今日三度目の地下展示室に、ぼくと鳴はいた。
とはいえ、鳴がここでなにをするつもりなのかは、相変わらずよく分からないのだけど。
エレベーターから降りたところで質問をぶつけてみたけど、結果はこの通りだ。

「まあ、後って言っても、もうすぐ分かるけどね。――榊原くん、そこのカーテンをめくってみて」

言われるがままに、展示スペースへと続くカーテンをめくる。

「あれ?」

異変にはすぐ気がついた。
さきほどまでそこにあったはずの、例の人形。
鳴そっくりの人形が、それを納めていた棺ごと忽然と消えていたのだ。
どこに行ったのかと展示室全体を見回してみても、目が届く範囲には見当たらなかった。

困惑するぼくの背後から、くす、という微かな笑い声。
振り返ったぼくに、鳴は気取った調子でこう言った。

「分かった? じゃあ、榊原くんに問題です」


「――人形は、どこに消えたでしょう?」
60 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:13:51.95 ID:qJudscWY0


「問題って……どういうこと?」

「さっき上で待ってもらっている間に、ここにあった人形をわたしが隠したの。場所は、この地下のどこか」

両手を後ろ手に背中に回し、心なし胸を張るようにして話す鳴。
なんだか、自分が彼女の授業か何かを聞いているような気分になってくる。

「榊原くんには、それを見つけてもらいます」

「えっと……質問、いいかな」

「どうぞ」

発言を許可されたので、軽く咳払いをして言う。

「さっきぼくを上に行かせたのは、このためだったの?」

「そう。隠すところを見られたら、問題にならないから。……でも、棺がもともとここにあったのは、榊原くんも確かに見たでしょ? だから最初は一緒に来てもらったの」

「……なんだか、話がよく見えてこないんだけど。これは話の続き、なんだよね? つまりその、きみの家とそれを建てた人についてのさ」

「うん」

「きみが人形を隠して、ぼくがそれを探すことが、それにどう関係してくるの?」

「言ったらヒントになるから、それはまだ秘密。でも、見つけられたら分かると思うよ」

肝心なところをあやふやにされ、思わず深く吸った息を「……なるほどね」という言葉と一緒に吐き出す。
61 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:14:36.13 ID:qJudscWY0
鳴がいう「準備」とは、おそらくこのことだったのだろうと見当はついた。
しかしその理由については、相変わらずどころか一層分からなくなり始めている。

「いずれにしても、きみの言う通り人形を探すのが一番手っ取り早いのかな」

「そういうこと」

思えば、鳴からこんな風に謎かけというか、何かを挑まれるのは初めてのことだ。
しかもなんだか自信ありげな態度だし、それだけの「何か」があるということなんだろう。
そう考えると、にわかに興味が湧いてくるのだった。

もともとこっちは暇人だ。徹底的に付き合ってやろうじゃないか。
そう思い「それじゃあ」と言って取りかかろうとしたぼくを、鳴が手で制する。

「その前に。――時間は、何分がいい?」

「え、時間制限なんてあるの」

「だってここ、あんまり広くないし、時間をかければ絶対に分かるでしょ」

そう言って鳴はほんの少し袖をまくり、腕時計に目を落とす。
黒い革ベルトの、すっきりとしたデザインの時計だった。

言われてみれば確かにその通りなのだが、当然と言わんばかりのその様子に、少し意地悪がしたくなる。

「それはどうかな。……というか、きみが人形を隠したのって、本当にここなの」

それを聞いて、鳴は目だけをぼくに向ける。

「……どういうこと?」
62 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:15:46.72 ID:qJudscWY0
「だって、ぼくは隠したところ、見てないし。『ここに隠した』なんて言って、実はどこか別の……例えば、二階とか三階のどこかにあったりしない?」


そんなことを言いつつも、それがありえないということをぼくはよく分かっていた。
もし鳴が人形を上の階に隠したのだとすれば、その運搬には当然、エレベーターを使ったはずだ。
だけど、他ならぬぼく自身がずっとエレベーターの前にいて、それが三階から動かなかったことを知っている。
動いたのは唯一、鳴が戻ってきた時だけだし、その時鳴は手ぶらで、もちろん人形はどこにも無かった。

とはいえエレベーターを使わずとも、階段を登ってギャラリー、あるいは二階や三階に人形を持っていくことは可能だ。
ただしギャラリーからは直接二階に上がることはできないから、この場合は一度外に出て、外階段を使うことになる。
棺は鳴の背丈ほどの大きさがあるけど、中に入っているのは人形だ。
それなりの力仕事にはなるだろうが、棺を抱えて階段を上がることは鳴にもできるだろう。

二階や三階の入口については、先ほど鳴が言ったとおり施錠されているはずだから、もちろんそのままでは外から入れない。
だが、こと彼女に限っては、それが問題となることはないのだ。
この家で生活している鳴なら当然、それを開ける鍵を持っているのだから。

持ち運びや扉の開け閉めの手間を考えたなら、どう考えてもエレベーターを使った方が楽ではあるけれど……。
いずれにしても、エレベーターが動かなかった=上階に人形を運ぶことは無理、ではない。

だとすれば、鳴がぼくに勘付かれないようエレベーターを避け、階段を使い人形を運んだ可能性はあるか?

それもありえなかった。
そもそも鳴はぼくに「リビングで待ってて」と言ったのだ。
ぼくがエレベーターを――それもリビングに行かずずっと――見ていたなんて、知りようがなかったはず。
予測できないことを見越して、わざわざ手間のかかる方法を選ぶはずもない。
63 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:16:47.28 ID:qJudscWY0
それにぼくが言いつけ通りリビングにいた場合、今度は逆にギャラリーの外に出た瞬間を発見される危険すらある。
ぼくが先ほど、男の人を目撃したように。
もし階段を使うつもりだったとすれば、むしろ「エレベーターの前で待ってて」とでも言って、ぼくの意識を階段から逸らせるくらいのことはしそうなものだ。

要するに、この地下展示室のどこかに人形が隠されているのだろう、という点についてはぼくだって疑ってはいない。
ただ、なんでもかんでも鳴のペースで進んでいくのはちょっとなあ、なんて思っただけのことで。

「――ふうん、疑ってるんだ。榊原くんは」

ほんの少し眉を持ち上げ、しかしどこか楽しそうに鳴が言う。

「いいよ。そんなに怪しいって言うのなら、断言してあげる。一階にも二階にも、それから三階も……とにかく、この上には無いの。人形があるのは――」

すうっと、その右手が上がった。

「間違いなく、こ・の・ち・か」

一音一音区切りをきかせた「この地下」とシンクロした動きで、つんつんと床を指差してみせる鳴。
自信たっぷりのその様子に、思わず苦笑してしまう。
つられて鳴も微笑み、なおもこう続けた。

「もし人形が上で見つかったら、わたしの負けでいいよ」
64 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:17:39.61 ID:qJudscWY0
「負け、って……じゃあ、人形を見つけられたらぼくの勝ちってこと?」

「そういうことになるかな」

「勝ち負けがあるってことは、ひょっとして、その結果に応じて罰ゲームみたいなものが?」

「もちろん」と頷く鳴。

「何をするかはわたしが決めるから、まずは榊原くんが時間を決めて」

なるほど、そうするのか。
ぼくが決めた時間で「勝てる」と判断したなら、遠慮なく厳しい罰ゲームにすればいいし、
逆にもし長い時間を――例えば、一時間とか――提示されたとしても、今度はそれを当たり障りのないものにすることだってできるだろう。

「その前に確認なんだけど。きみが隠したって言う人形は、棺に入ったあの人形でいいんだよね」

「そう。霧果が創った、わたしによく似たあの人形」

「それで、その人形は棺に入ったまま?」

「うん。人形だけを別にして隠したり、なんてことはしてないよ」

そうなると、棺はそれなりの大きさがあるし、隠すことができる場所は限られるはずだ。
そして、展示された人形のどれかにそれが紛れている、なんてことを考える必要もなくなる。

……これ、案外簡単に見つかるんじゃないか?
少なくとも、何十分もかかるものではなさそうだけど。

「時間はぼくが決めるんだったよね。――じゃあ、三分で」

「三分ね」揃えた指先でつう、と頬を撫でて鳴が言う。「まあまあ、かな。もっと長い時間にすると思ったけど」

「まあ、あんまり長すぎてもだれると思うからさ」

「じゃあ、次は何をするか、ね。うーん……」

いかにも考えてます、といった感じで腕を組み、視線を天井に向けた鳴だったが、ほどなくして腕を解いた。
65 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:18:25.68 ID:qJudscWY0
「負けた人が、勝った人に<イノヤ>で何かごちそうする、っていうのはどう?」

<イノヤ>というのは、三組のクラスメイトの家族が営んでいる喫茶店の名前だ。
学校の近くにあり、ぼくも一度だけ行ったことがある。

「……なんだか、意外と大人しめな罰ゲームだね。もしかして、三分もあれば簡単に見つけられる?」

「さあ? 勝つのが分かりきってるから、優しくしてあげただけかもよ」

軽く揺さぶりをかけてみたつもりだったけれど、あっさりかわされてしまった。
でもまあ、言われてみれば確かにそういう考え方もあるか。

「ていうか見崎って、<イノヤ>に行ったことあったんだ」

「たまにだけど、紅茶を飲みにね。コーヒーはちょっと苦手」

家でも缶の紅茶を飲んでいるものだから、そこらへんにはあまりこだわりが無いんだろう、と思っていたぶん意外に感じた。

……それよりも、だ。
負けた方が勝った方におごるということは、当然そのためにぼくと鳴が二人で<イノヤ>に行く必要があるわけで。
それって……つまりその……ええと。

――これ、ぼくは勝っても負けても問題ないんじゃあ……。

いや、今からそれを考えても仕方がない。まずは目の前のことに集中しよう。

確認することも十分だろうと思ったぼくは、軽く両手を広げ「いつでもどうぞ」と促す。
鳴も応じて、再び時計を覗き込んだ。

「それじゃあ、準備はいい? 用意――始め」
66 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:19:03.77 ID:qJudscWY0
15

「――あと一分。どう? 見つかりそうかしら」

壁際にある陳列棚の裏側を調べていたぼくに、鳴がそう声をかけてきた。
その声にはまだまだ余裕がある。
それもそのはずで、二分が経ったというのにぼくは一向に人形を見つけられていない。
もう、展示室の中はあらかた調べたと思うのだけど。

「……見崎、確認なんだけどさ。本当に、人形を隠したのはここなんだよね?」

返事はない。
このゲームが始まってからは、もうずっと鳴はこんな調子だった。
口を開いた場面といえば、「あと二分」「あと一分」と残り時間を告げる時くらいなもので。
どのような形であれ、ヒントは一切与えませんよ、ということなのだろう。
多分このへんだと見当をつけていた箇所が悉く空振りで、手当たり次第に展示室を探し始めたぼくが、
装飾として作り付けられた暖炉のマントルピースを覗き込もうとした時は流石に

「そこに棺は入らないと思うけど?」

と呆れ気味の突っ込みを入れられたが。

それはともかく、人形はどこだろう。
展示スペースにも、カーテンの向こう側、エレベーターホール周辺にも見当たらない。
ぼくがただ見落としているだけなのか、それともやっぱり、上に?
いや、それは鳴があれだけ否定していたじゃないか。

「あと二十秒」

いよいよ時間がなくなってきた。このままだと、時間切れでぼくの負け。
別にこのまま負けてしまっても、何をするのかは分かっているし、それに異論もないのだけど……。
このまま手も足も出せずに終わるというのは、やっぱり悔しい。これはプライドの問題だ。
せめて、あと一歩のところまでは迫りたい。
必死に室内を、人形たちを見渡す。
67 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:20:08.15 ID:qJudscWY0
背中に翼を生やした天使のような人形。
二人で一つの体を共有する、結合双生児の人形。
折り返す階段の下に立つ、二体の首なし人形。
――二体?

「あれ?」

思わず声が出た。
ここに来て鳴と話していた時、あそこに立っていた人形は一体だけだったはずだ。
それがどうしてか、二体に増えている。

別のところに立っていた人形が運ばれてきたのかと思ったけど、ぼくが見る限り他の人形たちは動かされていない。
まるで分裂でもしたかのように、二体目の人形が現れていた。
棺にばかり意識を向けていたせいで、今まで気が付かなかったのだ。

その気づきがきっかけとなったのか、発見がもう一つ。
首なし人形たちが立っている、その向こう。
そこにあるのは壁だとばかり思っていたが、よく見れば上端が不自然に途切れている。

あれは壁じゃなく、衝立か。
となれば、当然その奥には空間があるはずだ。人形だったら、簡単に入るくらいの。
つまり、この突然現れたもう一体の首なし人形は、今までそこのスペースに置かれていたんじゃないだろうか。
その人形が、今こうして外に出されているということは。

――代わりにそこに入っているのは、一体何だ?

その疑問が、

――あそこしかない。

という結論に至るまでに、大した時間はかからなかった。
68 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:20:57.98 ID:qJudscWY0
「あと十秒。九、八……」

土壇場の発見に色めき立つぼくとは対照的に、鳴は冷静な口調のまま、最後のカウントダウンを始めた。
間に合うだろうか。
ところ狭しと並ぶ人形にぶつからないようにしながら、それでも小走りに階段の下へ。
首のない人形たちを持ち上げ、脇へと寄せる。

「七、六、五……」

そこにあるのは、やはり衝立だった。
一方の端を持ち上げ、そのまま九十度回転させる。
そして現れた、人がひとり収まるほどのスペースに、探し求めていたそれはあった。

「四、三、二……」

ひとつ深呼吸をして、上から下までそれを見回す。
まだそのくらいの余裕はある。

――間違いない、この棺だ。
両手を蓋にかけ、深呼吸をもう一度。

そして。

「一……」

「――見つけたよ」

勢いよく、蓋を外した。
69 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:21:53.43 ID:qJudscWY0
16

なにもない。
それが、一番最初に浮かんだ思考だった。だけど、棺の中が空っぽだったわけじゃない。
ぼくの思った通り、そこには蒼白いドレスを纏った人形が収まっていた。

でもぼくは、その人形が「鳴に似ている」だなんて、恐らくもう、二度と言えない。
長い黒髪。白蝋のように白い肌。
それでもなお、そこにはあるべきものが無かった。
それは消え失せてしまったのではなく、ただぼくがそれと認識できていないだけなのだろうが、どちらでも同じことだ。
いずれにしても、そこにあるのは「無」、あるいは「孔」だった。

人形は、顔が命。

いつかどこかで、そんなフレーズを耳にしたことがある。
その言葉に照らせば、ぼくの目の前にあるのは「人形の死体」ということになるのだろう。
そう、つまり……。



――その人形の顔は、潰されていた。
70 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:22:42.81 ID:qJudscWY0
ハンマーか何かで殴打したのだろう。それも恐らく複数回。
人形の顔は広い範囲にわたって陥没し、顔のパーツは何一つ原形をとどめていない。
輪郭だけを残して後は空洞になったその顔の内部には、鼻だとか、瞼だとか、あるいは内側から眼球を固定する部品だとか、そういうものが砕けた破片が積み重なっている。
その中には割れた眼球も混ざっているようで、ガラスの断面が地下展示室のわずかな光をきらきらと反射していた。

とても恐ろしいものを目にしている、という自覚はあった。
なのに、それを見つめるぼくは自分でも不思議なくらい冷静で。
呼吸も、心臓の鼓動でさえも、いつもと変わらない。

こつん、と右のつま先に何かが当たる。
何だろうと視線を足元に落とし、そして――。
71 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:23:37.59 ID:qJudscWY0
目があった。

丸い、人形の目――「うつろなる蒼き瞳」が、ぼくをまっすぐに見つめていた。
顔が壊された際、割れることなく眼窩からこぼれ落ちた片方の眼球が、蓋の開いた拍子に中からここまで転がってきたのか。

……表情、あるいは感情といったものは、顔のそれぞれの部分が一体となって表現されるものだ。
だから本来、瞼も唇もない、たった一個の眼球からそういったものが読み取れるはずもない。
あくまで眼が一つ、そこにあるだけ。そのはずだった。

それなのに、その見開かれた瞳は、まるでぼくに無念を訴えかけているかのように哀しげな光を湛えている。
殺された人形の、声なき叫び――。

それでようやく、血液が、恐怖が、ぼくの中で巡り始めた。

「……っ」

自分としては悲鳴を上げて後ずさったつもりだったのに、それは微かな息遣いにしかならなかった。
その精一杯の叫びも、それと一緒にぼくが手放した蓋が床に落ちる音にかき消されて、きっと鳴にすら届いていない。

……そうだ、鳴は?
さっきぼくが言った「見つけた」という声は、鳴にも聞こえていたはずだ。
早く鳴にも、このことを伝えないと。

いや……それともまさか、この破壊された人形こそが、鳴の見せたかったもの?
これを見せて、ぼくをびっくりさせたかったとでも? 
もしそうだとすれば、これは流石に趣味が悪い。
それにこんなの、「話の続き」でもなんでもないじゃないか。
72 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:24:24.20 ID:qJudscWY0
「見崎、これは一体――」

「……どうして」

いつもよりトーンの高い、上ずった鳴の声。
振り返ると、驚いた表情を浮かべた鳴が口元を手で押さえていた。その手は僅かに震えている。

「どうして、こんな……」

もう一度鳴が言う。彼女もまた、状況が飲み込めずにいることは明らかだった。

考えてみれば当然のことだ。鳴がこんなことをするはずがない。
誰かがやったのだ。
悪意を持った、誰かが。

――じゃあ、それは一体誰だ?

そう考えたぼくの脳裏に、一つの影がよぎる。
それは三階で目にした、こちらを見上げる男のシルエット。

「……あいつだ」

自分でも気づかない内に、そう口に出していた。

あいつがやったのか。
鳴が人形を隠し終え上へと戻った後、このギャラリーに入り、人形を見つけてその顔に凶器を振り下ろしたんだ。
ぼくが見たのは、それを終えて帰っていくあいつの姿。

それをぼくは、何も知らずに……!
73 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:25:20.25 ID:qJudscWY0
そこまで考えた時には、もうぼくは駆け出していた。
あれからもう十分近くが経ってしまっているが、だからといって何もせずにいることはできない。
階段を登り、一階の出口へ。

登りきった辺りで、鳴が「榊原くん」とぼくの名前を呼んだ気がしたが、今はやつを追う方が先だ。
ドアに飛びつく。

そこで、カウンターの上にあるものが目に留まった。
「入館料五百円」と書かれた小さな黒板の前に、硬貨が何枚か――おそらく五枚だろう――積まれている。

間違いない、あの男はここに入っていたんだ。
そう確信を強め、ドアを思い切り開けた。乱暴に開けたせいで、けたたましくドアベルが鳴る。

あいつがいたのは……確か右手方向の角だった。そしてそのまま消えた。
角を曲がったのだとすれば、方角的には駅方面に向かったはずと見当をつけ、ぼくは駅を目指して走り出す。

走っている途中、閉まるドアがもう一度鳴らしたドアベルの音を、遠く、微かに聞いた気がした。
74 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:26:10.98 ID:qJudscWY0
17

もう1キロは走っただろうか。駅はまだ遠い。
息はとっくに切れて、走るスピードもだいぶ落ちていた。
手術で肺は完治したのだから、せめて休みの日くらいはジョギングでもしておくべきだったかもしれないと、今更ながらに後悔する。

それでも何とか足だけは止めずにいたが、例の男はおろか、車や通行人ともすれ違わないままだ。
そこまで考えてようやく、あいつがあのまま徒歩で立ち去ったとは限らないことに思い至った。
相手は大人だ、車を使った可能性だってある。
そう考えた途端、気持ちが折れ、もう走れなくなった。

膝に両手をついて、肩でぜえぜえと息をする。それだけでは呼吸が静まらず、二、三度咳込んだ。
反射的に肺の痛みを予期して体を硬くしてしまうが、手術のお陰だろう、痛みが襲ってくることはなかった。

そのまま荒い呼吸を続け、それがようやく治まってきた頃。
うなじに、ぽつりと冷たいものが当たった。空を見上げると、それは顔にもぽつぽつと当たる。
頭上には黒い雲が広がっていた。

どうするべきか考える前に、今度はポケットに入れた携帯電話が震える。
ディスプレイに表示されたのは、鳴の電話番号。
通話ボタンを押し、「もしもし」と呼びかけた。

「榊原くん?」

「……ああ、見崎」
75 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:27:03.14 ID:qJudscWY0
ぼくが知る限り、この番号は鳴にとって二代目の携帯電話になる。
携帯を「いやな機械」と言ってはばからない鳴は、合宿の後、一度それを捨てたのだ。

もっとも、すぐに霧果さんから新しいものを持たされることになるだろう、という本人の予想通り、
前回の訪問時には既にこの番号を使っていたのだけど。
鳴からの着信は、その時以来のことだった。

「今、どこにいるの?」

「ごめん、何も言わずに飛び出しちゃって……」

そう応じながら、重要なことを思い出す。

「――そうだ見崎、警察には通報した?」

「警察?」

「うん、だって犯人を捕まえてもらわないと」

「……」

鳴は少しの沈黙のあと、「榊原くん」とぼくの名を呼ぶ。

「今日のことは気にしないで。……もう、大丈夫だから」

「えっ?」
76 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:27:50.21 ID:qJudscWY0
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

「だけど……人形が壊されたんだよ。霧果さんだって、きっと」

「それも平気。霧果には、わたしの方から伝えておくから。――雨、降ってるんでしょ? 榊原くんも、もう帰った方がいいよ」

鳴の言う通り、雨はどんどんと勢いを増していて、道路の乾いた部分はほぼ無くなりかけていた。

「でも見崎、犯人が――」

「ねえ、榊原くん」

濡れるのも構わず、なおも食い下がろうとしたぼくに、鳴がぴしゃりと言葉を重ねる。

「犯人犯人って、誰のことを言ってるの?」

「誰って……ぼくらが地下に行く前に、男の人がギャラリーから出てきたんだ。だからその人が」

「わたしは見てない。――そんな人、本当にいたの?」

「いたから、こんなことになったんだよ。あいつが入ってきて……ええと」

「それで、人形を壊して出ていった? そう言いたいの?」

「う、うん」
77 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:28:45.98 ID:qJudscWY0
言いたいことはたくさんあるのに、言葉がまるで出てこない。
鳴の家を飛び出してから五分近くが経っていたけれど、
冷静さを取り戻すどころか、何事も無かったかのような様子の鳴に、かえって動揺が強くなっている。

「……榊原くん、まずは落ち着いて。それから、あなたは何もしなくていいの」

「見崎……?」

ぼくに言い聞かせるような口調で、鳴は続ける。

「あなたの言う、犯人。ギャラリーに入ってきて、人形を壊して出ていった、男の人」

ざあざあという雨音の中で、それははっきりと聞こえた。



「――いないの。そんな人は」
78 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:29:40.43 ID:qJudscWY0
「……いない……?」

「そう。……もう、大丈夫だから。じゃあね」

それだけ言って、電話は切れた。鳴が終話ボタンを押したのだろう。
スピーカーからは、ツー、ツーという不通音が流れてくるのみ。

なにもかも、理解できなかった。
大丈夫? もう平気? いない? そんな馬鹿な。それじゃ、それじゃあまるで……。
様々な感情が浮かんでは、そのまま通り過ぎていく。

雨はほとんど土砂降りに近いものとなり、ぼくはとうに全身くまなくびしょ濡れとなっていた。
もう、慌てて帰ることも、雨宿りだって必要ない。

しばらくそうして雨に打たれていると、ついさっきまでぼくを突き動かしていた熱のようなものが、徐々にその温度を失っていくのを感じた。
もう少し時間が経ってしまえば、ここから動くことすらもできなくなりそうな気がして、そうなる前になんとか足だけは家に向け、歩き出す。
これ以上何かを考える気にはとてもなれなかった。
79 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:30:26.44 ID:qJudscWY0
……真冬の冷たい、雪に変わる寸前の雨が好きだと、いつか鳴が言ったことがある。
それには程遠いはずの十月の雨が、この時ばかりは凍てつくように冷たく思えた。
80 : ◆8D5B/TmzBcJD [sage]:2019/02/21(木) 02:31:57.29 ID:qJudscWY0
一旦区切ります。
続きはなるべく早めに投下します。
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/02/21(木) 13:19:46.01 ID:n38NCHPT0
乙です!!
82 : ◆8D5B/TmzBcJD [sage]:2019/02/21(木) 21:13:17.73 ID:qJudscWY0
再開します。
83 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:14:05.71 ID:qJudscWY0
18

その翌日、日曜日。
ぼくはまだ布団の中にいた。時刻は、午前十時を回ったころ。
とっくに目は覚めていたのだけど、もう一時間以上はこうしてぼんやりしている。

思考に浮かんでくるのは、昨日の出来事ばかり。
棺の中の、顔を失った人形。こちらを見つめる蒼い瞳。
いかにも「でき過ぎ」なあの光景を思い出す度に、やっぱりあれは夢か何かだったのではないか……。
そんな気もしてくるが、もちろんそうではない。間違いなくぼくが目にしたものだ。

にもかかわらず現実感が薄いのは、自分の目で見ておきながら、その意味をぼく自身が理解していないせいだろう。
そのせいで考えているとはいっても、それは何か具体的な形をつくるでもなく、絡まってはほどけてを繰り返していた。

枕にしていた右腕が痺れてきたので、寝返りをうって仰向けになる。
具合が悪いわけではなかった。昨日あれだけ雨に濡れたというのに、むしろ体の調子は良い。
濡れねずみになって帰ってきたぼくを出迎えるなり、一も二もなく風呂場に放り込んでくれた祖母のおかげだろう。
84 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:14:43.21 ID:qJudscWY0
……なんというか、祖母には本当に心配をかけてばかりだな、と思う。
ここに来てすぐ気胸で入院したことに始まり、その後の通院、合宿明けには手術まで。
その間ずっと、ぼくの面倒を見てくれたのは祖母だった。

昨日だって、出かける時に伝えていた帰宅時間を大きくオーバーした上に、ずぶ濡れで帰ってきてしまった。
それに――ああ、そうだ。
心配をかけているのは、いまこの瞬間だってそうだったじゃないかと思い出す。

ちょっと前、なかなか起きだしてこないぼくに、祖母はそろそろ朝ご飯を食べたらどうかと声をかけてきてくれた。
それに対してぼくは、昨日のことが頭から離れず「まだいいや」なんておざなりの返事をしただけ。
まったくもって不義理極まりない。
急に、自分がものすごく悪いことをしているような気がして、いても立ってもいられなくなった。

いい加減に起きよう。
そして祖母や祖父に――それから一応、九官鳥のレーちゃんにも――おはようを言うのだ。
話はきっと、それからだろう。

「よし」と誰に言うでもなく口に出し、ぼくは勢いをつけて体を起こした。
85 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:15:23.40 ID:qJudscWY0


遅めの朝食を済ませた後、洗面所で顔を洗った。
十月に入ってお湯を使うようになっていたけれど、今日はなんだか気合を入れたくて、冷水で思い切りバシャバシャとやる。
濡れた前髪をタオルで拭いていると、鏡の中の自分と目が合った。

左手で前髪を押さえている鏡像のぼくのあらわになった額の右上、ちょうど髪の生え際辺りに、小さな傷痕があった。
長さは縦に約1センチ。そこだけ皮膚の色が白くなっていて、ちょうどチョークで引いた線のようにも見えるけど、
普段は前髪で隠れているから目立つというほどでもない。

これは合宿の時にできたケガ、らしい。
らしいというのは、ぼくにその瞬間の記憶がなくて、はっきりしたことが言えないからだった。

とはいえ、それがいつのものなのか、おおよその目星はついている。
合宿で"死者"――怜子さんの背にツルハシを突き立てた後、襲ってきた強烈な肺の痛みに耐えかね、ぼくは意識を失った。
最後の記憶は、砂利混じりの地面が急速に接近する光景。
次に目を覚ましたのは病院のベッドの上で、額には大きなガーゼが当てられていた。
要するに、倒れた時に石で切るなりしてできた傷、ということなのだろう。
86 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:15:56.22 ID:qJudscWY0
この傷痕を目にする度に、ぼくはどうしてもその時のことを、そして怜子さんのことを思い出してしまう。
逆に言えば、この傷がある限り彼女のことを忘れるなんて絶対にあり得ないのではないか、そんな風にも思うのだけど、
それはきっと、甘すぎる考え方だ。

今ぼくが、どんなに鮮明に覚えていたとしても関係ない。「その時」が来てしまえば、それまでなのだ。
傷痕だって、何か違う理由でできたもの、ということになってしまうに違いない。
あるいは……この滅茶苦茶な<災厄>のことだから、傷痕そのものをなかったことにする、くらいのことはやりかねないんじゃないか、きっと。

いつの間にか思考が捨て鉢なものに傾いてきてしまっていることに気づいて、もう一度顔を洗うことにした。
勢いよく水を顔に打ちつけると、そこだけ皮膚が薄くなっているわけでもないのだろうが、傷痕がひりひりと染みる。
けれどおかげで頭は随分とすっきりした。

もう少ししたら、着替えて出かけることにしよう。
87 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:16:41.34 ID:qJudscWY0
19

雨はあれから今日の明け方まで降り続いたものの、それで満足したとでも言うように、今では青空が広がっている。
昨日のこともあって一応傘を持ってはきていたが、この分ではただの手荷物で終わってしまいそうだ。
かといってわざわざ置きに戻るというのも面倒だしと、傘を杖代わりにして、かつかつ、こつこつとアスファルトを突っつきながら歩いた。

歩きながら考えたのは、それでも昨日のことだった。
あの地下展示室であったはずのことを、ぼくは想像する。
さきほどはまるでまとまらなかった思考が、今度はすんなりと、あるイメージとなって浮かんだ。

それは人形で溢れた暗い部屋と、そこに佇む一人の少女――鳴。
そして彼女の前には、身長と同じくらいの高さの棺が一つ。
その蓋は閉ざされている。ぼくの目の前で、鳴が閉めたからだ。

あの時はまだ、棺の中の人形は無事で、何の異常もなかった。
それはぼくがこの目で見たのだから間違いない。
88 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:17:11.72 ID:qJudscWY0
ぼくを地下から追い払った後、鳴は"準備"のため、人形を棺ごと隠したと言っていた。
衝立の裏に置いてあった人形を引っ張り出し、代わりに棺をそこに隠す。
ただそれだけのことにあれほどの時間を――大体二十分くらい――かけていたのだから、
きっとあそこに決めるまで、それなりに悩んだのだろう。

とにもかくにも棺を隠し終えた鳴はエレベーターで三階に向かい、地下に残るは人形たちだけ……。
そう思いきや、階段を降りてくる影が一つ。

ひょろりと背の高い、リュックを背負った男。鮮明な鳴の姿とは対照的に、男の服や顔はぼやけて判然としない。
まあ、これがぼくのイメージであり、ぼくがこの男を間近で見たわけでもない以上、このくらいが限界だ。

男は、鳴とほぼ入れ替わりでギャラリーに、そして地下展示室に侵入する。
それから手際よく地下を探し、お目当てのもの――棺に入った鳴の人形を見つけ、にやりと笑う。
もちろん笑ったなんてことはぼくの想像でしかないが、これから彼がすることを思えば、それはひどく相応しい行為に思えた。

やにわに背負っていたリュックを下ろし、その中に手を入れる男。
取り出されたその右手には……日曜大工で使うような、ハンマーが握られている。
彼が最初からそのつもりだったとすれば、道具は予め自分で用意していたことだろう。
それにぼくの知る限り、地下展示室にはそういう類のものは置かれてなかったはずだ。
89 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:17:53.66 ID:qJudscWY0
男の目が、じっと人形を見据えた。
と思った次の瞬間には、彼は勢いよく腕を振りかぶり、人形めがけて振り下ろす。

一回。
二回。
三回。
……もう一回くらいか?
念には念を入れて、四回。

それだけで、人形の顔は無くなってしまった。それを見た男は、満足げに深く息を吐く。

後は、撤収する準備だ。
ハンマーをしまい、リュックを背負う。棺の蓋を閉め、衝立と首なし人形も元通りに。
そして足早に階段を上がる。

そのまま出ていこうとした男の足が止まったのは、出口付近。目に留まったのは、「入館料五百円」と書かれた小さな黒板。
そこでまた男は、ふっと笑うのだ。
そして何を思ったか財布を取り出し、百円玉を五枚、重ねてカウンターに置く。
そうして、今度こそギャラリーをあとにした。
90 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:18:57.33 ID:qJudscWY0
そこから先、ギャラリーから去っていく男の姿は、実際にぼくがこの目で見ている。
だから、以上がぼくの想像というわけだ。

想像といっても、他の可能性があるようには思えなかったし、いくつかの根拠らしきものもある。
確信には至らないまでも、それが真実だろうと思うことはできた。

――いないの。そんな人は。

鳴に、そう言われるまでは。
91 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:19:29.42 ID:qJudscWY0
人形を隠していた間を除けば、鳴はずっとぼくと一緒にいた。
彼女にしても、状況はぼくとほとんど変わらない。
いやそれどころか、あの時ギャラリーから出てくる男のことを、鳴は見てもいなかった。
彼女自身もぼくに電話でそう言っていたはずだ。
ぼくから言われるまで、男の存在そのものを認識していなかったのだろう。

なのにどうして、あそこまできっぱりと言い切れる?
状況から考えれば、誰かが忍び込んで人形を壊したのは自明のことじゃないか。

それを訊こうとあれから何度か鳴の携帯にかけてみたけど、電源を切っているらしく、一度も繋がらなかった。
……まあ、これは昨日のことがあったせいとかではなく、いつも通りの鳴なのだろうけど。

かといって、家の電話の方にかけるというのはどうにもためらわれた。
鳴が出ればまだいいが、もし霧果さんが出たとき、ぼくは何と言えばいい?
何も言えないまま電話を切ってしまいそうな気がするし、それではいたずら電話になってしまう。

それに、例え鳴と話せたとしても、鳴はきっと何も教えてはくれないだろう。
そんな予感があった。
92 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:20:10.32 ID:qJudscWY0
だから結局、あれから状況に変化があったわけでも、目の覚めるような新情報がもたらされたわけでもない。
ただ……鳴にああ言われた結果、昨日あそこで実際に起きたことは、ぼくが想像しているようなものだったとは思えなくなっていた。

鳴の言うことに同意するわけではない。
ただ、これだと思う考えに一度ストップをかけられて、自分でも気づいたことがあると言うべきか。

あの時、地下から戻ってきた鳴を出迎えた後。
ぼくらはすぐに地下へと戻ったはずだ。
ほんの少し話をしたり、外の様子を確認したりということはあったけど、その全てを合わせたとして、多めに見積もっても五分少々といったところ。
そのわずかな時間で、人形を見つけ出し、それを壊して、全部を元通りにして去っていくなんてことが可能だろうか?

ぼくの場合は、人形を見つけるだけで三分かかった。
それにしたって、衝立の存在に運よく気づいて三分だったのだから、もっと時間がかかっていた可能性だってある。
人形を破壊して逃げる余裕なんて、とてもない。

もちろん、最初から隠し場所を知っていて、迷いなく行動できたとすれば、五分というのは充分な時間になるだろう。
しかしあの時点では隠した本人である鳴を除いて、それを知るすべは無い。

つまり、あの男は棺のありかを知らなかったはずなのだ。
それを全くの偶然、幸運によってすんなり見つけられたと考えるのは、流石に無理があった。
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:20:57.50 ID:qJudscWY0
疑問はそれだけじゃない。
ぼくが見た男が犯人であるとするなら、彼は初めから鳴の人形を狙っていたということになる。
展示されていた他の人形たちには何もせず、わざわざ棺を探し出して中の人形を破壊していることからもそれが窺えるし、
そもそも棺の人形の存在を知っている人間でなければ、隠されたそれを探す、という行動はできない。

だとすると、彼は以前にもあそこを訪れたことがあって、鳴の人形を見たことがあった。
そして昨日、何らかの理由でそれを壊していった、ということなのか?

「何らかの理由」なんて言っても、具体例を挙げられるわけじゃない。そんなものがあるのか、という気さえしている。
更に言えば、仮にそんなものがあったとしても、なお不自然な部分は残るのだった。

まず、今回のことが計画的な行動だったのならば、夕方の、しかも人までいる時にわざわざそれをする必要がない。
住人の不在時や、寝静まった真夜中。
もっと良いタイミングがあったはずだ。

しかも、そんな間の悪さで行為に及んだ上に、標的の人形が見当たらないというアクシデントにまで見舞われたのに、
態勢を立て直そうとするでもなく、悠長にそれを探し始めた……と?
どうにも納得がいかない。

それに、鳴からそう教えられたぼくとは違い、彼には「地下展示室のどこかに棺が隠されている」という確信はなかったはずだ。
霧果さんの工房にあるとか、あるいはもう、既にそれが売れてしまっているかもしれないとは考えなかったのだろうか。
あの人形ってそもそも売り物なのか、という疑問もあるけど……とにかく。
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:21:31.66 ID:qJudscWY0
例の男が犯人だとすると、いろいろと腑に落ちないことがあるのだった。
しかもそれは考えてもどうにかなるものじゃなく、結局のところ、そもそもの前提が間違っていたのではないか、としか思えなくなっていた。

それは、つまり。

「……犯人じゃない、か」

まだどこか納得できないでいるぼく自身に言い聞かせるように、そう言葉に出した。
結局は、そういう結論になってしまうのか。
というより、ぼくもそれに薄々感づいてはいたけど、認めまいと無駄な抵抗をしていただけだったのかもしれない。

だって、彼ではないとするなら……それはぼくたちの中の、誰かがやったということに他ならないのだから。
正確に言えば、ぼくか、鳴か、霧果さんか。
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:22:10.90 ID:qJudscWY0
もちろん、ぼくではない。それはぼく自身が一番よく知っている。
ロバート・ブロックの「サイコ」みたく、ぼくの中にもう一人ぼくがいて、自分でも知らないうちに……なんてことはないと思う、きっと。

霧果さんは鳴が人形を隠す前からリビングに来ていたし、ぼくが待っている間もずっと三階にいたことは間違いない。
だから、人形を壊すことはできない。

つまり、残るは――

ふっと視界が暗くなり、思考が中断される。
大きな影の中に入っていた。
見上げれば、この辺りではひときわ大きなコンクリートの直方体が聳えている。
鳴の家――<夜見のたそがれの、うつろなる蒼き瞳の。>。

あれこれ考えごとをしていたら、いつの間にかここに辿り着いていた……なんて、白々しいことを言うつもりはない。
ぼくは間違いなく、自分の意志でここに来たのだ。昨日ここであったことを、もう一度確かめるために。
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:22:40.49 ID:qJudscWY0
ギャラリーの入口には、昨日とは違い「閉館」の札が下がっていた。
もしかしてと思ってドアを開けようともしてみたが、流石に今度はしっかりと施錠されていた。
まあ、これは予想していたことだ。
そもそも昨日だって、本当は閉館だったのに運良く入れたようなものだったし。

だから今日のぼくは、最初から三階のインターフォンを押すつもりだった。
もちろん鳴がとり合ってくれない可能性もある。
が、わざわざやってきたぼくを即座に追い返す、なんてことはしないんじゃないだろうか。
それに見知った人が相手なら、たった一本の電話線だけでつながって表情も分からないまま話をするよりも、
こうして直接話す方がかえって気楽だ。

ところが。
インターフォンを押しても、誰の返事も返ってこない。
そして、窓の外から見えるリビングには、人の気配が全くなかった。

……留守か。そこまでは考えていなかったな。
二人で買い物、あるいは今の時間帯を考えれば、食事にでも出かけているのだろうか。
97 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:23:42.69 ID:qJudscWY0
いずれにしても、これでは出直すしかない。
ぼくも一度家に戻って、お昼ご飯でも食べた方が良さそうだ。
さっき朝食を食べたばかりで、あまりお腹は減っていないのだけど。

そんなことを考えながら仕方なく階段を降りていくと、

「ありゃあ、閉館かあ」

という、どこかのんびりとした声が聞こえてきた。
どうやら、ぼくと同じようにここを訪ねてきて、肩すかしを食らった人がいるらしい。

階段を降りきったぼくは、そこに立っていた来訪者の姿を目にして――凍りついた。

リュックを背負った長身の男。
忘れもしない"あいつ"が、そこにはいた。
98 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:24:29.06 ID:qJudscWY0
20

こういう時は、なんでもないふりをしなくちゃいけない。
第一、向こうだってぼくの顔をはっきりとは覚えていないかもしれないのだ。
大きく反応したり、動きを止めたりしてしまえば相手にまでそれを悟られてしまう。

とにかく今はこの場をやり過ごして、ここにはまたあとで来ればいい。
そう。ぼくはただ、この家に用事があって来ただけだ。誰もいなかったから、あとは帰るだけ。
そうやってあくまで冷静に、ただ通り過ぎてしまえば大丈夫……。


――なんてことを思ったのは、たっぷり五、六秒は固まってからだった。
とっくに手遅れだ。
目の前の男が、こちらに顔を向ける。
99 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:25:17.60 ID:qJudscWY0
初めに感じた印象は、思っていたよりずっと年上の人なんだな、ということだった。
おそらく、男性としては少し長いウェーブのかかった髪や、ベージュのジャケットに濃い青のカッターシャツという着こなしといった、
彼が全体として纏っている――言ってしまえば洗練された雰囲気が、ぼくにそう思わせたのだろう。
しかしこうして間近に顔を見ると、浅黒い肌に深く刻まれた皺に彼の過ごした年月が窺える。

頬がこけた顔や、まさに「鷲鼻」という表現がぴったりの大きめの鼻、落ち窪んだ眼窩……。
部分部分を書き出すと、どちらかと言えば鋭利な顔立ちをしている人だと気づく。
しかしその目はやや垂れ目がちになっており、それが彼の印象を柔和なものにしていた。

なんというか、そう……ぼくの周りの人で例えるなら、千曳さんに似ている。
たぶん、年齢も大して変わらないはずだ。

少なくともこうして向き合っていると、悪い人のようには見えないのだった。
けれども改めて彼を目にしたことが呼び水になったのか、ぼくの直感はいっそう強く、

――昨日見たのはこいつだ、間違いない。

と訴えかけてきている。

当の男は、ぼくの顔を見て何かを思い出したかのようにほんの少し眉をひそめ、

「君は……」

と口を開いた。
100 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:25:54.49 ID:qJudscWY0
どうしよう。
このまま走り去ってしまうべきだろうか? それとも、いっそ携帯で警察に通報を?

いやいや、さっきぼくはこの人が犯人じゃないという結論を出したばかりではないか。
……でも、それは本当に?
ああ、だけど――

そうこうしている内に、男はすっと上を指差して言う。

「昨日の夕方、あそこに立っていたよね。ここの家の子供さんかい?」

「はい?」

やっぱり、見られていたらしい。しかも一部誤解がある。

「……ここは、ぼくの家じゃないですよ。それよりなんで、それを知っているんですか?」

「ん? ああ、ちょっと覗かせてもらったという話でね」
101 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:26:27.88 ID:qJudscWY0
そう言ってポケットの中から、覗き穴が二つついた平べったいケースのようなものを取り出した。
折りたたみ式の、オペラグラスという双眼鏡の一種だろう。
父が似たようなものを使っていたはずだ。

「申し訳ない。あまりお行儀のいい話ではなかったかな。しかし、となると君は……」

「……ここはぼくの、クラスメイトの家なんです。昨日は、それで」

「はあん、そういうことか」納得がいったというように、うんうんと頷く男。

「しかしここ、今日は休館なんだねえ。……君は、今日もそのお友達に会いに来たということかな?」

やたらとこちらのことについて訊いてくる。探りを入れられているようで、あまりいい気分ではなかった。

……この人、人形は壊していないのかもしれないけど、それとは別に何か企んでいるのか?
そう考えはじめると、ぼくの受け答えも自然とぶっきらぼうな物言いになってしまう。

「そうですけど、留守みたいですね。誰もいませんでしたよ」
102 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:27:02.52 ID:qJudscWY0
「留守?」男が目を見開いた。「しまったな……やっぱり昨日、上の方も訪ねておくべきだったか」

「何か、ここの人に用事でもあるんですか」

「人というよりは……家に、だね」

――家?
そう言われて、記憶のほんの浅い部分でざわめくものがあった。
そうだ。鳴から昨日聞いたばかりじゃないか。この家は――

ぼくがそれを言うより早く、彼はその名前を口にした。


「――君は、中村青司という男を知っているかい?」
103 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:27:48.48 ID:qJudscWY0
中村青司。
<夜見のたそがれの……。>を建てた建築家。
そして、孤島で非業の死を遂げた男……。

「……この家を建てた、建築家だって聞きました」

もともと正答は期待していなかったのだろう、「ほう」と答える男は驚きの表情を隠さなかった。

「それも、君のクラスメイトから?」

ぼくが頷くと、矢継ぎばやに次の質問が飛ぶ。

「じゃあ、ちょっと確認させてくれ。この家は見崎紅太郎という実業家が、中村青司に設計を依頼したものだと聞いたんだが、合っているかい?」

頷く。

「現在ここに暮らしているのは、件の見崎氏ではなく、人形作家である彼の妻だとも聞いたけど、それは?」

頷く。

「うんうん。……それで、この辺の人たちはここを"夜見山の人形館"と呼んでいる?」

頷く。

……質問攻めにあうというのはなかなかにしんどいものだと、ぼくはこの時、自分がされる側になってようやく思い知った。
これは鳴でなくても「嫌い」と言いたくなる。
104 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:28:30.36 ID:qJudscWY0
男はそんなぼくにはお構いなしと言わんばかりの、いよいよ喜色満面といった様子で、

「成程。半信半疑だったけど、これはいよいよ信憑性が増してきたなあ」

なんて言い、また一人でうんうんと頷き、それからこちらを覗きこむように顔を近づける。

「君、他には? どんな話を聞いた? それだけじゃないだろう?」

「まあ、いろいろと聞きましたけど……」

「どうだろう、僕にもそれを聞かせてくれないかい? ぜひ頼むよ」

まだこの人の正体もよく分かっていないのに、いつの間にか彼のペースでどんどんと話が進んでしまっている。

……でも、これはある意味チャンスじゃないか?
昨日のことについて、彼の話を聞けば何か分かることがあるかもしれない。
それにお互い、一番話を聞きたい人間に聞けないでいるという立場は同じなのだ。
そんな風に考えると、この人のことをぞんざいに扱う気にはもうなれなかった。
105 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:29:02.45 ID:qJudscWY0
「……又聞きですし、大したことは話せないと思いますけど、それでもよければ」 

そう返答すると、男は「ありがとう。恩に着るよ」と満足げに笑う。
ぼくがさっきまで考えていたイメージの中で彼が浮かべていた邪悪な笑みとは、似ても似つかないものだった。
……やっぱり、悪い人じゃないんだろうか。

そんなぼくの内心を知るはずもなく、彼は「さて」と腰に両手を当てる。

「そうと決まれば、ここで立ち話ともいかないだろう。なんだが――」

「?」

「あいにく、この辺は地理不案内でね。どこかゆっくりできる所があったら、連れて行ってくれないかい」

そう言って、男はまたにっこりと笑うのだった。
106 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:29:41.88 ID:qJudscWY0
21

十分後。
三組のクラスメイトの一人、望月優矢の姉・猪瀬知香さん夫妻が経営する<イノヤ>に、ぼくら二人はいた。
「どこかゆっくりできる所」なんて言われても、中学生のぼくが知っている場所なんて、夜見山ではここだけだ。

ここも、数ヶ月ぶりになる。
前に来たのは確か、夏休みのあの日。
ここで知香さんから<災厄>の解決に関わる、重大な情報がもたらされたのだ。
あの時ここにいたのは、ぼくの他には望月と勅使河原が。

……それから、赤沢さんもいた。
なんだか、遠い昔のことのように感じる。

「へえ、ここはなかなか雰囲気がいいね。君、やるじゃないか」

能天気にそう呼びかけられて、現実に立ち戻る。
目の前の男は興味深げに、店内をきょろきょろと見回していた。

さっきから思っていたけど、なんというか……年齢の割に、子供っぽいというか、落ち着きが無いというか。
千曳さんのよう、という第一印象は、もはや欠片も残っていない。
と言うより、初めて来る場所で、中学生とはいえ初対面の相手と一緒にいるというのに、なんでこの人はこんなに寛いでいるんだろう。
それともやはり、ぼくがこの人を必要以上に警戒してしまっているだけ、なんだろうか。
107 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:30:23.37 ID:qJudscWY0
店の奥から知香さんがやってきた。

「あら、お久しぶり」

「……どうも。お久しぶりです」

そうして、向かいに座る男を見て、もう一度怪訝そうにぼくを見る。

――まあ、明らかに変な組み合わせだろうな。

しかし、そこは仕事中と頭を切り替えたのか「ご注文は?」と尋ねる知香さん。

「どうぞ」

ぼくは男にメニューを差し出す。

「うん? ああ、君から先に決めてくれ。好きなものを頼んでくれて構わないよ。流石に君みたいな未成年をつかまえて、割り勘なんてしないからさ。話を聞かせてもらう手間賃だと思ってもらってもいい」

おごってくれる、ということらしい。少し迷ったが、素直に甘えることにする。

「……ありがとうございます。それじゃあ、コーヒーを」

「はい」

ぼくの注文を聞いて、男が目を丸くする。

「コーヒーが好きかい? その歳で珍しいね」

「別に好きってほどでも無いんですけど……ここのコーヒーは、本物ですから」

「……ふふ」

知香さんが、それを聞いて微笑む。

「そういう風に言われると気になっちゃうなあ。じゃあ僕もコーヒーと……それから、サンドイッチでも頂こうかな。お昼も近いことだし」
108 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:31:07.33 ID:qJudscWY0


知香さんが奥に消えたあと、先に口を開いたのは男の方だった。

「さて、僕から誘ったわけだし、色々と訊きたいことはあるんだが……その前に」

少し困ったように眉を寄せ、ぼくを見やる。

「なんだか、君からあまり良く思われてないというか、疑われてる気がするんだな。僕はそんなに胡散臭いかい?」

急にそう言われると返答に困ってしまう。
肯定とも否定とも言えない、というのが正直なところだった。

「ああいや、確かに僕は昨日もあの家に行ったわけだが……それはさっきも言ったように、あの家そのものに興味があったんだ。まあ、訪ねたはいいけど一階には誰もいないし、上に人がいるのは分かったが今にも雨が降りそうだしで、昨日はそこで引き上げたんだがね」

それでも沈黙を続けるぼくに、彼は「もしかして」と前置きをしてこう言った。

「昨日、あの家で何か事件でもあったのかい? それで僕が怪しいと?」

手元に落ちていた視線が、一気に上へ、男の方へと向いた。
平静を装うことはできなかった。
そんなぼくの反応がまるで予想通りだったかのように、

「ふん。どうやら図星のようだね、少年」

と言って顎を撫でる彼の態度には、全く慌てた様子はない。
109 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:32:07.42 ID:qJudscWY0
「……どうしてそれを。まさか本当にあなたが」

「ちょっと待った。僕はまだ何があったのかも知らないよ。ただ、あそこが本当に青司の"館"だというなら、そういうこともありえる、そう思っただけさ」

釈然としない表情を浮かべるぼくに「まあ、その辺はおいおい説明するよ。まずは君の不安を解消しておきたい」と言って、男は脇に置いたリュックの中を探る。

「初めに、僕がどこの誰なのか、それをはっきりさせておこう。間の悪いことに名刺は切らしていてね。これで勘弁してほしい」

そう言って彼がテーブルに置いたのは、運転免許証だった。
氏名の欄には「島田 潔」とある。住所は東京になっていた。
写真を見る限り、彼のもので間違いはなさそうだ。

「島田さん、っていうんですね」

「そう、島田潔(しまだきよし)。職業も言った方がいいのかな」

「いえ、そこまでは」

今日は日曜日だから、この人がどんな仕事をしているか断定はできないけど、
雰囲気からしてなんとなく、サラリーマンとかではなさそうな気がする。
<夜見のたそがれの……。>を調べているようだったし、ジャーナリストとか、フリーライターとかだろうか?

いずれにしても、そこまで訊くのもなんだか申し訳ないと思って断ったのだが、島田さんはどこか残念そうな顔をしている。
……むしろ、訊いてあげた方が良かったんだろうか。

「君がいいって言うなら、それでいいさ。……じゃあ次は、僕にも君の名前を教えて欲しいのだけど、どうだろう? もちろん、無理強いはしないが」

「……ぼくの名前、ですか」

会話の展開を考えれば当然そうなるべき流れではあったけれど、やはり返事に警戒は混ざってしまう。
彼もそれを敏感に感じとったようで「ああ」と言葉を続ける。
110 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:33:31.66 ID:qJudscWY0
「別に深い意味は無いんだ。もし君が言いたくないのなら、偽名でもいいよ。例えば……僕は友人の一人を『こなん君』と呼んでいてね。もちろん彼の本名ではないんだが」

……この人は、推理小説が好きなのだろうか?
その名前だけを聞いても、当の「こなん君」がどんな人なのか、全くイメージが浮かばない。

「まあ、そういう類の渾名みたいなものでいいんだ。要は『君』とか『少年』とかじゃあ、こっちが呼びにくいってだけの話でね。なんなら、僕が名付けようか」

彼はそう言って「ふむ」と、ぼくを観察するようにじっと見つめ出した。
ぼくがこのまま沈黙していれば、おそらく一分もしない内に名前が決まってしまうことだろう。
そうなる前に口を開く。

「大丈夫です。島田さんに名乗ってもらった以上、ぼくも自己紹介するので」

「そうかい? 考えるのも手間じゃないし、別に僕は構わないよ」

「……いや、ぼくが困ります」

何にせよ、そんな名前で呼ばれ続けてはたまらない。ぼくも島田さんにならい、学生証を差し出した。
111 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:34:09.85 ID:qJudscWY0
「榊原――君か。ははん、こりゃあ因果な名前だねえ」

「……それを言われるのも、もう慣れましたよ。むしろ最近はご無沙汰でした」

強がりではない。本当にそう思ったのだ。
ここ夜見山に移り住む発端となった、ぼくの苗字にまつわるあれこれ。
それを淡々と、「ああ、またか。久しぶりだな」とだけ。
心が動くこともなかった。
ここに来てからというもの、あまりにも色々なことがあり過ぎたせいかもしれない。

「それは失敬。どうも歳を取ると、いつまでもこういうことを言ってしまって駄目だねえ、どうか忘れて欲しい」

「別に、気にしてませんから。……そんなことより、本題に入りましょう」

待ってましたとばかりに、彼は頷く。

「ああ、それがいいね。それじゃあ、教えてもらうとしよう。――昨日、あの家で一体何があったんだい?」
112 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:34:55.19 ID:qJudscWY0
22

ぼくが昨日起きた事件について説明する間、島田さんはじっとぼくの話に耳を傾けていた。
その途中で知香さんがコーヒーとサンドイッチを運んできたが、彼はそれに手をつけようともしない。
ぼくも同じくコーヒーはそのままにして、まずはひと通りの説明を終わらせた。

「――そして今日、ぼくはあなたに会ったというわけです」

「ふむ、成程ねえ。……話を聞く限り、確かに怪しいな。君が三階で見たというその男は」

まあそれは僕なんだけどさ、なんて言って、島田さんはおかしそうにくつくつと笑う。
それからようやくコーヒーに手を伸ばし、一口啜った。

「これは美味しいなあ、榊原君の言う通りだ」

「……ぼくはまだ、その人影が島田さんだったとは言ってないんですけど」

「いやいや、気を遣ってくれなくてもいい」と彼は空いた方の手をぶんぶんと振る。

「大体、同じ格好をした人間が偶然、一度に二人も現れるはずないだろう。……君が見たのは僕だよ、榊原君。それに僕だってその時、君のことを見たんだからねえ。そこの部分を誤魔化すつもりはないさ」

「じゃあ、そういうことにさせてもらいます。あれは、ギャラリーから出てきたところだったんですか?」

「ああ。さっきも言ったが、昨日一階の方にはお邪魔させてもらっていたんだ。もっとも、誰もいなかったわけだがね。そこでさっさと上を訪ねてれば良かったんだろうが……」

「……何かあったんですか?」

「いいや、何も。ただ、あそこに人形がいくつか置いてあっただろう? ちょっと見入ってしまってね。……凄いな、あれは」

なるほど、そういうことか。その気持ちはよく分かる。
なんだか彼に親近感が湧いてきて、ほんの少し口元が緩むのが自分でわかった。
113 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:35:29.82 ID:qJudscWY0
「すごいですよね。具体的に説明しろって言われると、ぼくも難しいですが」

「ああ。本物の人間そっくり、というのとはちょっと違うんだが……"濃い"んだろうな、存在が。かれこれ十五分近くはあそこにいたんじゃないかなあ」

彼はそう言って、今度はサンドイッチに手を伸ばす。
一口食べたとたんにそれまでの神妙な顔つきから一転、「おお」と目を輝かせた。
なんとも忙しい人だ。

「そういえば、ギャラリーにお金が置いてありましたけど、あれも島田さんが?」

カウンターに積み上げられた百円玉を思い出す。「入館料五百円」だ。
もっとも、ぼくは中学生だからと天根さんから半額にしてもらったり、
最近では「鳴の友達」という理由でそもそも免除してもらったりと、思えばまともに支払ったことがない。
天根さんの裁量によるところが大きいのだろう。

「そうそう。あれだけのものを見せてもらった以上、対価はちゃんと払うさ」

「……今更ですけど、ひとつ確認させて下さい。つまり、島田さんは『いた』んですよね? 昨日、あの時、あの家に」

「もちろん。君の目に狂いはなかったと僕が保証するよ。……ただ、地下に人がいたとは知らなかったな」

「昨日は、地下展示室の方には行かなかったんですか?」

「階段があることは分かってたんだが、誰にも会わない内に、勝手にそこまで入るのもどうかと思ってね。僕としては当然、無用なトラブルは避けたいものだから」

「……そうですか」
114 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:36:06.82 ID:qJudscWY0
「だからまあ、見崎氏の娘さんが僕に気づかなかったとしても不思議ではないんだが……」

釈然としないもの言いだ。「何か、気になることが?」

「それがねえ。何か引っかかってはいるんだが、どうもはっきりしなくてね。――ところで、君も飲んだらどうだい。冷めてしまうよ」

島田さんがぼくのカップを示す。話に夢中で、全く口をつけていなかった。
言われるままに、一口飲む。
もうだいぶぬるくなってはいたけど、それでも花のようにさわやかな香りと果物のような酸味が、ぼくの中を通り抜けていった。

おいしい。でもちょっと、苦い。

――やっぱり、ブラックはまだぼくには早いかもしれないよ、赤沢さん。
115 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:36:45.40 ID:qJudscWY0


それから半分ほどコーヒーを飲んで、カップを置いたぼくに、島田さんが「さて」と切り出した。

「昨日の僕の行動は、大体そんな感じだな。まあ、信じてはもらえないかもだが」

「……一応言っておきますけど、島田さんのことを疑ったのは事件直後の話で、今は違いますよ。嘘だとは思ってません」

彼に会うまでぼくなりにまとめていた結論は、もう既に伝えてあった。

「ああ、それもさっき言っていたっけねえ。僕としては別に異論はないし、妥当な推理だとも思うが……せっかくだし、一つだけ補足させてもらおうかな」

そう言って人差し指を立て、なおも彼は続ける。

「もし僕が犯人だったとしたら、僕があの館に行った時点で既に、人形は衝立の裏に隠されていた訳だ。これはいいね?」

「そうなる……と思います」

「すると僕は棺を探し当て、そのまま人形を壊した、と。つまり衝立の裏が犯行現場だ」

すっ、と指がぼくの方を向いた。

「だとしたら、これは妙じゃないか。目にしているべきものを、君は見ていない」

「ぼくが、ですか?」いきなり照準を向けられ、少しうろたえてしまう。「見てないって、いったい何を?」

「そこで犯行があったという証左。……つまり、返り血だよ」
116 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:37:43.00 ID:qJudscWY0
一瞬意味が分からず、「はい?」と気の抜けた返事をしてしまったが、思考はすぐに追いついた。

「……人形に、血は流れていないと思いますが」

我が意を得たりとばかりに、彼は大きく頷く。

「ごもっとも。この場合は、その破片ということになるかな。……榊原君、君が棺を見つけた時、周りに破片は?」

「いえ、散らばったりはしていませんでした」

ぼくが棺を見つけた時には、周囲を含めて何の異常もなかった。だから深呼吸をする余裕だってあった。
もし破片が落ちていれば、蓋を開ける前に気づいただろう。

けれど、あそこまで人形を壊そうと思えば、当然かなりの強さで殴る必要がある。
破片を散らさず、それができたとは思えない。
眼球だって、あんな風に棺の中には残らず、そのまま転がっていってしまいそうだ。

「わざわざ拾い集めて、棺に戻したんでしょうか」

思い浮かんだことを、そのまま口にした。

「どうだろうねえ。大きいものならともかく、全部となるとこりゃなかなかに大変だ。むしろ……初めから破片が飛び散らないようにしていた、とかね。棺を寝かせた上で壊したなら、破片はほとんど棺の中に落ちるだろう?」

「ですけど、棺の置いてあった辺りはいろいろと物があって、棺を寝かせるだけの広さはありませんでしたよ? だとしたら――」

「それができるところまで移動させてからやった、ということだろうね。……しかしだ、破片を拾い集めたにせよ、棺を寝かせたにせよ、僕が犯人だとしたらそんな手間をかける理由は一体何だと、そういう話になってくる訳だなあ」
117 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:38:16.71 ID:qJudscWY0
確かに、そこまでこだわる理由は存在しない。
そもそもこの時点では、後でぼくらが人形探しを始める、なんて予想はできなかったはずで。
発覚を遅らせたいのなら、元通り衝立で隠しておくだけでも充分だろう。

「まあ、あくまで補足だからね。僕の仕業じゃないと考えてくれているなら、それでいいさ。――それよりも榊原君」

「?」

「君の考えはついさっき教えてもらったわけだが、あれはまだ途中だね。その続きはどうなるんだい」

「……続き、というのは?」

「犯人かどうか検討するべき人間が、もう一人いるってことさ」

どくん、と心臓が一度、大きく脈を打つのが分かった。
それに呼応するかのように、背筋も自然とまっすぐに伸びる。

そんなぼくの様子を見てか、島田さんは申し訳なさそうに目を伏せた。

「……ああ、君にしてみればあまり考えたくない話だったかな」

「別に考えたくないとか、そういうことじゃないですよ。ただ……来るべきものが来たな、と」

神妙にそう答えると、彼も苦笑しながら頷いた。
118 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:38:50.22 ID:qJudscWY0
実際、ぼくだって「その可能性」を考えなかったわけではない。
むしろ、真っ先に疑ってかかるべきだとさえ言えるだろう。

だからこそ、ぼくは確かめる必要がある。

「ふむ、それじゃあお許しも頂いたことだし、考えてみることにしようか」

そう言う島田さんの手が、サンドイッチの最後の一切れをひょいとつまみ上げる。
それと同じくらいこともなげに、彼はこう口にした。


「見崎紅太郎氏の娘――鳴さん、だったかな? 彼女が犯人である可能性についてね」
119 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:39:27.50 ID:qJudscWY0
23

分かっていたことだ。

ぼくではない。
霧果さんでもない。
島田さんでもない。
残る人物は、ただ一人――鳴だけ。

「……やっぱり、そうなってしまいますよね」

「おやおや。随分とがっくりきているね。何も僕は、最後に彼女が残ったから犯人だ、なんて乱暴なことを言うつもりはないよ」

サンドイッチを食べ終え、両手と口が空いた島田さんが言う。
ぼくのことを慮ってか、慎重に言葉を選んでくれているのが分かった。

「ですけど結局、見崎は怪しいんでしょう?」

「まあ、疑うことを避けては通れないだろうねえ。第一、『もうすぐお別れ』なんて、まるで事件が起こることを予め知っていたような口ぶりじゃないか」

――この子とも、もうすぐお別れね。

人形が壊される前、鳴がそう口にするのをぼくは確かに聞いた。
そして、直後に「別れ」は訪れたのだ。

事件が起きることを、鳴は知っていた。
……というよりもむしろ、鳴こそが人形を壊した張本人だと、そう考えるのが自然だろう。
島田さんの言うとおり、疑うなという方が無理がある。
120 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:40:12.29 ID:qJudscWY0
そのことを再認識して目を伏せたぼくだったが、島田さんの言葉は思わぬ方向へ続いていく。

「とはいえ……そんな言葉だけで疑うのも、失礼ってものだけどね」

「えっ?」

「考えてもごらんよ。『お別れ』って言葉、意味するところは随分とあやふやだ。例えばその後、彼女は人形を隠したんだろう? つまり、壊されなくとも人形は消えていた訳だ。彼女にとっては、それを指しての『お別れ』だったのかもしれない」

「人形を壊すことではなく、ですか」

「ああ。それにもし彼女が犯人なら、そんなことを君に仄めかしたって何の得もない。そうやって色々と考えていくと、どうにもしっくりこない部分が多くてね。結論、僕にとって彼女は"怪しい"止まりなんだな」

おどけたように、彼は両手を広げる。
それがどこまで本心からの言葉なのか、ぼくには分からない。

「その辺りの確認も踏まえて、ひとつひとつ検討してみようか。……まずは、機会について」

「つまり、いつ人形を壊すことができたか、ですよね」

「ああ。人形が壊されたのは彼女がそれを隠して三階に戻り、再び君と一緒に戻ってくるまでの間。そう考えると君と霧果氏には犯行の機会が無くなり、僕にしたって時間は五分程度しかない」

ぼくは無言で頷いた。
ここまではぼくも同意見だった。
……そしておそらく、その先も。

「だが、これは彼女以外が犯人なら、だ。彼女が犯人ならば、話はもっと単純になる。なにせ君を追い払ってから三階に戻るまで、ずっと一人で人形の近くにいたんだからね。壊そうと思えば、その機会はいくらでもあったはずだよ」
121 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:40:54.50 ID:qJudscWY0
そう、鳴がやったのだと考えれば、話はきわめて簡単になるのだ。
事件が起きた後、鳴が警察に通報したがらなかったことも、これで納得がいく。
自分の犯行を警察に知られたいと望む犯人なんて、普通はいない。

「さっき僕らが話題にした破片の問題にしても、それは例外じゃなくてね」彼はなおも続ける。

「他の人が犯人なら、犯行に及んだのは人形が彼女によって隠された後。この場合、人形は隠され、そして壊されたという順番だ。だからこそ、犯人は破片をどうしたのか、なんて疑問が生まれた訳だが……それも、彼女が犯人なら消えてなくなる。つまり……」

「――『隠され、そして壊された』のではなく、『壊され、そして隠された』から。……そういうことですよね」

ならば当然、人形が壊されたのは衝立の裏以外の場所、ということになるだろう。そこに破片が無いのは当然の話だ。
そしてぼくが人形探しをしている間、床に破片を見つけた覚えはなかったから、
島田さんの言う通り、棺を寝かせて壊したということなのかもしれない。

「ああ。行動の順番としてもそう考えるのが自然だろうねえ。そしてその順序で行動できたのは、もちろん彼女だけ。……ところがだ」

「何か問題があるんですか?」

「どでかいのが、一つね。僕がさっき『十五分くらいギャラリーにいた』と言ったことを覚えているかい?」

「霧果さんの人形に見入ってしまって、でしたっけ」

「そうそう。他にちょっと確認したいこともあったりでね」

まあとにかくだ、と言葉を継いで彼は言う。

「とても静かで、有意義な時間だったよ。――だからこそ、問題なんだな」

そう言って、唇の端を僅かに持ち上げた、まるで問題とは思ってなさそうな表情でぼくを見た。
というより、それのどこが問題だと言うのだろう? 良いばっかりなのでは、とぼくには思えてならない。
あの日は音楽も流れていなかったのだから、それはそれは静かだったはず……。

――あれ? それってつまり……。

「島田さんがギャラリーにいた間、物音は一切聞いていないってことですか?」
122 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:41:53.41 ID:qJudscWY0
「そういうことさ。榊原君の話を聞く限り、人形はかなり派手に壊されているようじゃないか。彼女がことに及んだ時点で既に僕がいたのなら、その音は間違いなく聞こえてきたはず。そうじゃないということは」

ぼくに向かって突き出された彼の右手から、人差し指がぴんと上がる。

「僕があそこを訪れた後で、犯行が行われたはずがないんだ。だから彼女に『機会がいくらでもあった』というのは、表現として正しくはない」

「でも、それで見崎の疑いが晴れるわけじゃないですよね? 逆に、島田さんが来る前であればチャンスはあった、という言い方もできるんじゃないですか」

「はあん」顎に手をやり、彼は今度こそはっきりと笑った。「なかなか手厳しいじゃないか。僕よりも君の方が彼女を疑っているみたいだ」

「……今は見崎が犯人かどうか、それをはっきりさせる場面ですから。疑問は残したくないんです」

「ふん。なら、その辺りの時間をはっきりさせておいた方が良さそうだな。榊原君、君が一人で地下から三階に戻ったのはいつだい?」

「四時の……十分になるかならないか。そのくらいだったと思います」

「じゃあ、鳴さんが三階に戻ってきたのは?」

「四時三十分でした」時計を見ていたから、ここの時刻については自信があった。

「となると、彼女が一人で地下にいた時間は大体二十分くらいか。君の言う通り、人形を隠すだけにしては少々時間がかかり過ぎている気もするが……まず今はいいだろう」

島田さんはコップの水を氷ごと口に含み、がりがりと咀嚼しながら続ける。

「昨日、僕があの家に入った時間は四時二十分だったよ。入った時に腕時計を見たからね。そこは間違いない」

そう言ってぼくに示すように左手を掲げ、袖口から腕時計を覗かせた。
123 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:42:43.43 ID:qJudscWY0
「それからしばらくギャラリーを見て回って、帰ったのが四時三十五分ころ……ってところだ。まあ、その時間については君も異論はないだろう?」

「ええ」互いに姿を目にしている以上、ここは間違いない。

「そしてさっきも言った通り」揃えた指先でこちらを指して言う。「僕がギャラリーにいる間、大きな物音――それこそ何かを壊すような音は、一切聞こえなかったよ」

「……それなら、仮に見崎がやったのだとして、人形を壊すことができたのは」

「四時十分から二十分までの、およそ十分。そういうことになりそうだ」

「隠すのは島田さんが来てからでも良いとして、壊すだけで十分、ですよね。充分な時間に思えますけど」

少なくとも、これで鳴に機会がないと言い張ることは無理がある。

「だが、時間があるというだけで人形は壊せない」

「……それは、凶器が必要という意味ですか?」

人形の損壊部位は顔に集中していた。
偶然の事故、例えば壁や床にぶつけてしまったとかでは、決してああはならない。
何かしらの道具――ぼくはそれをハンマーと想像したわけだけど――を使った、意図的な行為だと考えるべきだろう。

「あの家で、そういう道具がありそうな場所だと……」

「二階にある霧果氏の<工房 m>、とかかな。しかしね、なにも必ずそこから調達しなきゃならないって話でもない。彼女がその気だったのなら、予め自分で用意していた可能性だってある」

「それじゃ結局、凶器は大した問題にはならないんじゃないですか? 見崎がどうにかしてそれを準備して、人形を壊した。それだけの話なんじゃ」

「うーん、僕にはそこまで単純な話に思えないんだよなあ」島田さんはそう言いながら、こめかみの辺りを指でつんつんとつついている。

「もちろんぼくは、見崎がそんなものを持っている場面は見てないですけど……ぼくがいなくなって一人になった後に取りに行ったとか、あるいはもともと、地下展示室に隠していたのかもしれませんよ」

こうは行ってみたものの、工房に取りに行ったのだとすれば、どうしてエレベーターを使わなかったのかという疑問は残る。
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