新田美波「わたしの弟が、亜人……?」
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13: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:18:18.36 ID:5kzXp0UHO

結局、美波は父といっしょに広島に帰ることとなった。父親は民間の海洋研究所の臨時職員として再就職が叶い、それはまたしても同研究所に勤める彼の友人のおかげであったのだが、同時に彼の過去の行いのおかげでもあった。以前、日本外科学会の学会誌に掲載されたヒトデの体細胞を用いた移植組織の拒絶反応にも関わる体細胞免疫の研究発表をその友人と共同で執筆したのだ。そのことをきっかけに生まれた交流のおかげで、美波の父親は故郷の海の近くで海水や砂浜に生息する生物の研究に時間を費やすことになった。娘ふたりとの生活は、贅沢をしなければなんとかやっていける。

普通の生活水準こそ取り戻せたものの、そうなるまでには当然多少の時間がかかったし、その時間は美波に「優秀であること」の重要性を認識させることになった。高い技能を持ち、人との繋がりを強く多く持てば、なにかあったときにも助けてくれる人たちがいる。それが「優秀であること」の教訓だった。それは父親を見ることで感じたことであったし、義母からの言葉から受け継いだことでもあった。

以下略 AAS



14: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:19:31.34 ID:5kzXp0UHO

現在の美波が、あのとき、キッチンから覗いた九歳の弟の背中を脳裏に浮かべると、その像は頭のなかでふたつの詩のあいだに置かれている。そのふたつの詩は、どちらもウィリアム・ブレイクのもので、同じ美城プロダクションに所属しているアイドル鷺沢文香から借りた『対訳 ブレイク詩集』によって知ったのだった。美波が文香からこの詩集を借り受けたのは、冬のライブが終わった後のことで、文香と同プロジェクトに参加しているアイドル速水奏が最近観た興味深い映画のことを話題にしたことがきっかけだった。その映画とは、ジム・ジャームッシュが監督したモノクロ西部劇『デッドマン』のことで、主人公の会計士ウィリアム・ブレイクをジョニー・デップが演じている。デップが扮する主人公の会計士の名前が詩人ブレイクと同じ名前であることからわかるように、この映画はブレイクと彼の詩が主題になっている。

こんなシーンがある。会計士ブレイクは、賞金が懸けられた自分の首を追ってきた保安官に向かって引き金を引く。「ぼくの詩を知ってる?」という台詞を吐き、銃弾が保安官の胸の真ん中に黒い穴をあける。白黒の映像だから、流れる血も黒い。

以下略 AAS



15: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:20:48.52 ID:5kzXp0UHO

美波の虚を衝いた二篇の詩はーーというより、詩に撃たれたことによって虚が生まれたともいうべきかーー映画のなかには引用されていない。

詩集『無垢と経験の歌』のなか、『無垢の歌』と『経験の歌』にそれぞれ収めれているその詩の題は、「失われた少年」と「一人の失われた少年」といい、前者には定冠詞が、後者には不定冠詞がついている。

以下略 AAS



16: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:21:57.06 ID:5kzXp0UHO

一方、『経験の歌』で詠まれる、不定冠詞のついた少年は、このような「無垢」の状態にある少年とは対照的に、自立した性格を見せ、父親に挑発的な態度と言葉をぶつける。


《自分を愛するように他を愛する者はいませんし、そのように他を敬う者もいません。/また思想が自分よりも偉大な思想を知ることはできません。/父さん、どうしてぼくは自分以上にあなたを/また兄弟のだれかを愛することができるでしょうか。/ぼくはあなたを愛しています、戸口でパン屑を拾っている小鳥を愛するくらいには》
以下略 AAS



17: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:23:17.41 ID:5kzXp0UHO

圭は九歳のとき、医者になると宣言した。当時六歳だった美波と圭の妹慧理子は、命に別状はないものの、治療法の無いめずらしい病気に罹っていて、検査、入院、退院を繰り返していた。慧理子はいまでもそのサイクルのなかで生活している。病院の白いシーツがかかったベッドの上で、入院生活用の使い古しが現れてるTシャツを着た妹が、うれしそうに自分の歌を聴いている姿を見ると、美波はよろこびのあとにかなしさを味わう。ステージから見る光景を知っているだけに、この病室のなかで反響するだけで、妹を外に連れ出す力のない自分の歌にかなしさを覚え、それをどうしよもない自分の無力さをかなしむ。

だから、美波は弟に期待していた。

以下略 AAS



18: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:24:20.94 ID:5kzXp0UHO


慧理子「兄さんは、そんな人なんかじゃない」


以下略 AAS



19: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:25:56.49 ID:5kzXp0UHO

ちいさな諦めが、慧理子の顔に乾いた微笑みをつくった。


美波「大丈夫だよ。まだ時間はかかるけど、圭がきっと病気を治してくれるから」
以下略 AAS



20: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:27:15.71 ID:5kzXp0UHO

慧理子は美波が続ける言葉を予想し、吐き捨てるように遮った。美波が言葉を失うなか、慧理子は言葉を継いだ。


慧理子「兄さんが医者になろうとしてるいるのは、自分の評価のためよ。それだけなの」
以下略 AAS



21: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:28:10.70 ID:5kzXp0UHO

美波が上京してから、海斗の姿を見たことはなかった。彼のことはすっかり忘れていたくらいだ。妹が海斗の名前を口にした途端、美波のなかで子どもの頃の記憶が、鮮やかな輪郭をともなって蘇ってきた。記憶のなかの季節は夏で、圭と海斗が虫とりにいく様子を二階の自分の部屋から眺めていた。麦わら帽子をかぶり、虫とり用の網とカゴを持った海斗のあとを、弟がついていっている。風を呼び込もうと開けた窓から、笑いあいはしゃいでいるふたりの声が聞こえてきて、部屋に遊びに来ていた友達に呼び戻されるまで、ずっと聞き入っていたことが思い出された。

その海斗のことが、いまなぜか問題になっていた。

以下略 AAS



22: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:30:43.67 ID:5kzXp0UHO

病院から出ると、青黒い分厚い雲が太陽を完全に隠してしまっていた。集合した雲はひとつの生き物のようで、上空を吹き荒ぶ強風に運ばれる様子は、まるで空を蛇行する蛇のようだった。風の唸りは、鈍く光る蛇の運動によって引き起こされているかのようで、その振動が地上に降り注ぐと病院の窓を一つ残らず揺さぶった。ガタガタっとうるさい音が病院全体から響いている。明日の天気が不安になるような空模様だった。

埼玉の家に戻ってくると、玄関にスニーカーが爪先を揃えて扉の方に向け、置かれていた。美波がリビングへ行くと、まだマフラーを巻いたままの圭が、IHヒーターの上にヤカンを置き、コーヒーを淹れるために加熱をしているところだった。厚めのカーディガンの分だけ着膨れした学生服の袖から、寒さで青白くなった手のひらを出し、ヤカンからの放熱を受け止め、手のひらを温めている。

以下略 AAS



23: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:31:59.28 ID:5kzXp0UHO

ブラックのまま手渡されたコーヒーの味にいよいよ舌がうんざりしてきた美波はソファから立ち上がり、キッチンに砂糖とミルクを探しに行った。弟が座っているキッチンの椅子の背に、すでに首から解いたマフラーがかけられている。弟のカップのコーヒーは黒い液体のままだった。ぬるくなって湯気もたたない黒いコーヒーとは対照的に、圭の手のひらはカップの温度が移ったのか、しっとりとしたピンク色に染まっている。

単語カードを繰る音と、コーヒーをかき混ぜるスプーンがカップに当たるカチャカチャ音が交互に、そして十回に一回くらいの割合で同時に鳴った。カップの中身が乳白色で中和されきった。美波がカップから弟に視線をやると、手元の単語カードは残すところあと数枚というところだった。

以下略 AAS



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