31:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:15:55.55 ID:6NLLeJ5C0
 「いいえ」とかぶりを振って、ちょっと甘えていたかもしれない、と省みた。実際、罰されて当然の事はした。それで怒られると思わなかったとは、虫がいいのではなかろうか。 
  
 「そうなの? ふーん」 
  杏は尚も、概観以上の何かを見出そうとしているようだった。 
 「意外だなー。杏が落として割りかけたときは、こっぴどく言われたもんだけどね」顔も向けず話す。 
32:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:16:28.69 ID:6NLLeJ5C0
 「贈り物……」 
 「そーそー」杏は声を低くして語った。「その先輩、プロデューサーに一から十まで叩き込んだ人なんだけどね、お母さんが病気になって、田舎に帰らなきゃいけなくなったんだって。プロデューサーも何とか引き留めようとしたんだけど、やっぱり駄目でね。それで最後の日、夏の日ね、ヒグラシとか鳴いてたの。見送りに行った電車の改札でさ、絶対トップアイドル育てて、世界のはじっこまで輝き届けてくれって、このカップ託されたんだ」 
  
  何かを確かめるように、千夜を覗き込む。 
 「それ以来、このカップは約束の…… ううん、これはプロデューサーの一等星――夢の象徴だったんだよ」 
33:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:16:57.24 ID:6NLLeJ5C0
  話を聞いて、ふたたび破片を見返した。細かいものは少ないし、何処かが消えてなくなったということもないと思う。 
 「そっかそっか。こんなに大事な物壊されても、千夜の方を心配してたんだね」としみじみ杏。「ふーん。なんか、分かっちゃったなぁ。千夜がどんなに思われてるか」 
  
  千夜は落としていた視線を持ち上げた。 
 「それは、どういう――」 
34:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:17:48.85 ID:6NLLeJ5C0
  彼が胸中の痛みなど感じさせない、いつも通りの顔をしていただけに、かえって躊躇われるなか、千夜は「あの」と切り出した。 
  
 「ん?」 
 「この度は、すみませんでした」 
  ここは誠心誠意と思い、頭も下げた。会釈程度に。 
35:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:19:04.15 ID:6NLLeJ5C0
   
   
  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 
   
   
36:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:19:31.75 ID:6NLLeJ5C0
  一段落のところで、今度は千夜から切り出す。 
 「これからお嬢様をお送りしたら、お台場に出掛けたいと思うのですが」 
 「お台場? うん、いいよ。お買い物?」 
 「はい」 
 「魔法使いさん、気に入るといいね」 
37:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:20:16.99 ID:6NLLeJ5C0
  心臓が止まったかと思った。その後の全身の血が逆流したような感覚も、千夜の驚愕を表すものだった――私は何を言ったっけ? 
  
 「あはっ、可愛い♪ 驚いた?」 
 「その…… 何故?」 
 「分かったかって? 千夜ちゃんの事ならぜーんぶお見通しなんだよ?」 
38:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:20:47.12 ID:6NLLeJ5C0
 「左の手の平、怪我してるよね。隠してるけど、握り方とか向け方とか、千夜ちゃんにしては珍しいよ。だから気にしてたら、手袋が切れてるのも見えちゃった。取って。……ほら、やっぱり絆創膏。消毒は? うん、さすが千夜ちゃん。 
  じゃあ何で怪我したかっていったら、私が朝、千夜ちゃんのコーヒー褒めたのが原因だと思うの。《魔法使いさんにも淹れてあげたら?》って。ジャズベも持ってったもんね。あはっ、可愛い。それで魔法使いさんのカップを持って来たんだね。それをどうしてか、割っちゃった。 
  それで足や脛じゃなく手、それも指じゃなくて手の平を、しかも利き手じゃない方を切ったのは、単に当たったとか、触った以上の事があったのね。きっと、それが魔法使いさんにとって大事なカップだったから。千夜ちゃんは優しいから、形だけでも戻そうとして拾い集めてみたんだね。それで優しさの証拠がここに。うん、とっても綺麗だよ。ここまでが、千夜ちゃんの左手がお喋りしてくれたこと♪ 
  
  魔法使いさんも優しいから、カップなんかいいよって言ったと思うけど、千夜ちゃんは気が済まないよね。何処で買ったかまで聞き出した——少しでも、魔法使いさんの大切≠ノ近い物を贈る為に。単に良い物を買うなら、東京にはいくらでも近場のお店があるのに、渋谷でも銀座でもなくお台場なのはそういうわけ。 
39:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:21:15.24 ID:6NLLeJ5C0
  ちとせは紅く目を細める。千夜は舌を巻いた――また変な遊びを。 
  大筋ではあるが、仕草だの二言三言からこうまで見透かされては敵わない。脱帽です、とお辞儀した。 
  
 「おっしゃる通りです」 
 「ね、千夜ちゃんのことなら何でもお見通しなんだから」 
40:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:21:54.57 ID:6NLLeJ5C0
  言いながら、ちとせの宝石のような瞳は、一点を注視していた。その表情に妖しいものが宿る。 
  視線が射る先、ベンチに腰掛け、鷺沢文香が本を読んでいた。青い装丁を両手一杯に開いている。ちとせは、すすす、と早足で寄って、 
 「文香ちゃん、こんにちは」 
  
  朗らかな挨拶を意にも介さないようで、文香は依然、活字へ目を落としたままだった。ちとせ嬢は焦ったそうにベンチの裏側まで回って、耳を喰むかという近さでまた「こんにちは」。餌食の首筋を、華美な五指で撫でながら。 
41:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/01(火) 23:28:35.29 ID:6NLLeJ5C0
 「こんにちは」と再三ちとせ、ベンチの背もたれに両肘ついて。 
 「こ…… こんにちは」 
 「驚かせてすみませんでした。どうぞ」本を差し出す。 
 「いえ…… はい、ありがとうございます」受け取る。 
 「読書してたんだ? 推理はお好き?」 
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