エミリーが忘れた日

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77 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:08:25.72 ID:9pdDfgPfo
 
「……なんでよ…………ここまでしてるってのに…………バカ……バカ……バカバカバカバカっ……!! ばかぁっ!!」

力の入らない両腕でエミリーの肩をわずかに揺する。

「《思い出してよっ……!! どうすれば思い出すのよっ……!!》」
「《ごめんなさいっ……ごめん……なさいっ……》」
「こんなの嫌よっ……バカ……バカばかばかっ……こんなことで大和撫子を諦めるんじゃないわよっ……!! どうしたらいいのよっ……!!」

お互いに止まらなくなって、しばらく泣きじゃくった。
そのままどのくらいいただろうか、ようやくちょっとだけ頭が落ち着いてきたとき、目に入ったものがあった。

部屋の反対側、ベッドサイドテーブルの上に置かれていた、大きなハサミ。

しばらくボーっと眺めた後、ふと、ひとりでに言葉が口をついた。

「──そうよ……パッツンなのよ……」
「《……えっ……?》」

自分自身の台詞に誘われるようにゆっくりと立ち上がって、吸い込まれるようにそちらへ向かった。
滲んだ視界を頼りにそれを手に取ると、冷えきった金属の感触だけが鮮明に指へと伝わってくる。
そのまま一歩ずつ、もう一度エミリーへ近寄った。
彼女は不可解なものを目撃するような目つきをしていた。

「…………エミリー、見なさい。 ……こっち見て……!!」
「《何を……》」


こうなりゃ──ヤケよ。
78 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:08:59.61 ID:9pdDfgPfo
 
綺麗に分けた前髪をグシャグシャと崩して、だらんと顔の前に垂らしてから、ハサミを開いて額に当てる。

「《何して……!?》」
「あんたがいつまで経っても忘れたまんまだからでしょうがっ……!」
「《だめ……何してるんですか!? だめ…………っ!!》」

私の右腕を抑えようとするエミリーを振り切って、あてがった刃をこめかみからこめかみまで横切らせた。

「これでも──」

そのまま勢い任せに、

「これでも……思い出さないのかって──」

右手に思いっきり力を加えて、

「言ってるのよぉっ──!!」
「《だめええぇぇっ!!》」


一思いに握り込む。
79 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:09:44.45 ID:9pdDfgPfo
 






ジャキン、と擦れた金属の小気味良い音が響いた。
同時に視界がいっぺんに明るくなる。

ふわふわと落ちていったまっすぐな前髪の残りをバサバサと振り払って、私はもう一度エミリーを見た。

「……ァ…………ァ、ァ……」

エミリーは小刻みな息遣いの隙間から言葉にならない声を必死に上げようとして、口をパクパクさせているばかりだった。
私も荒げた呼吸を落ち着かせるだけで精一杯だったけど、それでも彼女から目線を離そうとしなかった。


「《……な、ん、で…………》」


大きくて睫毛の長い、真っ赤に染まった両目をこれでもかと大きくあけて──
80 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:10:25.69 ID:9pdDfgPfo
 










「── ヨリ、チャン……?」











 
81 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:11:17.48 ID:9pdDfgPfo
 
引きつったような声を吐き出したエミリーは、次の瞬間フッと力が抜けたように肩をカクリと落とし、頭を後ろへ投げ出すように、向こう側へ倒れていく。

「ちょっ……エミリー!?」

すんでのところで背中に手を回し、なんとか支えてやった。

「エミリー? エミリー!?」

目を閉じて、停電したようにぐったりしている。何度揺さぶり起こそうとしても反応がない。



「《……お母様! お母様! エミリーが……!》」

必死になって抱えあげた彼女の体をベッドに横たわらせ、助けを求めに階下へ走った。
82 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:15:56.32 ID:9pdDfgPfo
 
──

────

────────


パパはどこ?


ママとお兄様たちがしばらく留守にするらしいから、あたしとパパもどこかへ遠出して、新堂やメイドたちをしばらくお休みさせるって聞いた。
それでロンドンに行こうって誘われたんだもん、てっきりパパと二人っきりで過ごすんだと思ってたのに……
やって来たのはだれかの家。うちほどじゃないけど、まあまあ大きくてキレイなおやしきだった。

「大事なお話があるから、伊織は向こうで大人しくしていておくれ」
「……うん」

着いたとたんにそれだけ言って、パパは人がいっぱいいる方に行っちゃった。あーぁ、やっぱりお仕事だったんだ。
しかたないのは分かるけど、こんな場所でどうしてろって言うのよ。いるのは大人ばっかり。
ずっとむつかしいお話して何が楽しいんだろ。ジュースのおかわりももらいにいく気がしないわ。
ほんっと、つまんないパーティー。

「あたしの相手をしてくれるのはあんただけみたいね、うさちゃん」

この子も退屈そうにしていたので、ぎゅっと一回だけだきしめて、そのままいっしょに何もせず過ごしていた。
83 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:16:41.18 ID:9pdDfgPfo
 
「こんばんは。 ミナセ・イオリちゃんだね」

しばらく一人でぼーっとしてたら、声をかけられた。ふりかえると、金ぱつのおっきな男の人がいた。

「あ……えっと……グッドイブニング」
「あぁ、大丈夫だよ。 おじさんは日本語話せるから」
「……そうなの?」
「スチュアート家へようこそ、日本のかわいいお嬢さん」

おじさんはしゃがみこんであたしに目線を合わせながら言った。

「ごめんよ、君のお父さんは人気者だから忙しくて。 代わりにと言ってはなんだが、うちの娘と遊んでやってくれないかな?」
「……女の子がいるの?」
「ちょうど君と同じくらいの歳でね、部屋でおとなしくさせてるんだが退屈しているらしいから……君が良ければ、でいいんだけど」

どうしようかと思ったけど、ここにいたってどうせおしゃべり相手なんていないし。

「じゃあ、連れてってくださる?」

それだけ伝えると、おじさんは中へあたしをエスコートしてくれた。
84 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:17:43.65 ID:9pdDfgPfo
 
おやしきをしばらく歩いて二階へ上がると、おじさんはある部屋の前で立ち止まってコンコンとノックをした。

「...Who is it?」

かわいらしい女の子の声が返ってくる。

「It's dad, Emily. May I come in?」
「Sure.」

おじさんがゆっくりとドアを開いていく。

せなかごしに部屋をのぞくと、私よりも少し小さい外国人の女の子が真ん中にポツンとすわっていた。

ドールハウスでままごと遊びをしていたその子は、まるで昔ママに買ってもらったヨーロッパの人形にそっくり。
目はまんまるでとっても大きくて、アメジストみたいなひとみがキラキラかがやいていて、
頭の動きに合わせて金色のツインテールがふわふわとゆれていて。


くやしいけど、すっごくきれいな子だと思った。
85 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:18:48.11 ID:9pdDfgPfo
 
「I'm so boring to dye, daddy.」
「Sorry, sweetheart.」

おじさんと英語で少しだけお話しているのをながめていると、その子もあたしに気がついた。
びっくりしたのか、おびえるような目をしておじさんの後ろにサッと隠れちゃった。

「《大丈夫だよエミリー、この子はパパのお客さんの子なんだ》」

おじさんは笑いながら女の子を抱きかかえて、あたしの近くにストンとおろして立たせた。

「《日本から来たんだよ。 お友達になってくれるってさ》」
「《日本……?》」
「《ほら、お話してごらん》」

女の子はおじさんの後ろにかくれたまま、ちょっとだけ頭を出してこっちをのぞいてきた。
近くでみるとやっぱりすごくかわいくて──もちろん、あたしも負けてないけど──ちょっとドキドキする。

その子はあたしの顔をじっくり見つめて、それから少し考えてから、口を開いた。

「ハジ……メ、マシテ」
「わっ……この子も日本語話せるの?」
「少しだけね、まだ勉強中なんだ。 《そうだよな、エミリー》」

おじさんに返事をするように、女の子が小さくうなずく。
86 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:19:54.54 ID:9pdDfgPfo
 
「Emily Stewart...デス。 アナタ、ハ、ナント、イイマス、カ?」
「エミリー……っていうの?」

今度はあたしの声に反応して、コクコクとうなずく。なんだかちょっと照れくさい。

「えっと、あたしは……伊織……」
「?」

ちょっとおっかなくて声が小さくなっちゃってたのか、エミリーは首をかしげた。
自分もちょっとだけなら英語できるわよ、って言いたくて、思い切って話してみた。

「マ……マイネームイズ、イオリ。 ミナセ、イオリ」
「ヨーリ?」

聞きまちがえられた。

「いおり」
「ヨリ?」

またまちがえられた。

「ヨリじゃない、イオリ。 伊織ちゃん!」
「ヨリチャン?」
「ちがう!」
「Nice to meet you, Yorichan?」
「だからちがうったらーっ!」

思わずさけんじゃった。何なのこの子!あったまきちゃう!
女の子はビックリしちゃって完全におじさんの後ろにかくれちゃうし、おじさんはそんなの気にしないでアハハって笑ってるし。
そもそも言葉もろくに通じないのに、どうやってなかよくしろって言うのよ!?
87 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:21:58.91 ID:9pdDfgPfo
 
そのまま部屋に置き去りにされたあたしは、エミリーっていうその子がひたすらお人形遊びをしているのをただ見ているしかなかった。
さっきよりは退屈じゃないけど、それでも退屈。

両手に持った人形が二つ。色違いのドレスを着た、そっくりな双子みたいな人形。

「……それ、なんて名前なの?」

いちおう話しかけてみるとエミリーがこっちを見た。
言葉分かってるのかしら?まだあたしのことをちょっとだけこわがってるみたい。
さっきはどなっちゃって悪い事したわね。……何て言えばいいんだろ。

「えと……フー、イズ、ディス?」

片方を指差すと、エミリーは自分のしていることにきょう味を持ってくれたと思ったのか、ようやくあたしの相手をしてくれた。
88 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:22:32.26 ID:9pdDfgPfo
 
「...This is Charlotte.」
「うん」
「And this is Charlotte.」

同じじゃない。

「あんたも一人っきりでこんなとこに閉じ込められて、かわいそうにね」
「?」

今のはよく分からなかったみたい。どのくらいの日本語なら通じるのかしら。

「……ん」

とりあえずエミリーに向かって片手をさし出した。

「あそんで、あげる」

区切ってしゃべってあげるとエミリーはちょっと驚いたような顔をしてから、

「ハイ、アソビマス、ヨリチャン!」
「よりちゃんじゃなくて伊織ちゃん」

ようやく初めてあたしに向かって笑って、人形の片方を貸してくれた。
89 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:23:16.69 ID:9pdDfgPfo
 


次の日もパパはお仕事で忙しいからって、泊まっていたホテルからまたスチュアート家におじゃましてあずかられることになった。
どういうこと?あたし“ホームステイ”しに来たんじゃないのよ?

「せっかく来てくれたのにごめんなさい。 エミリーは今お稽古中なの」

今日はエミリーのおばさんが出むかえてくれた。

「そうなの? 何の?」
「日本舞踊よ」

へえ、やるじゃない。あたしも日本舞踊はちょっとだけ習ってたことあるし、せっかくだから見せてもらおうかしら。

「娘は練習中で……日本の方に見ていただけるほどのものではないですけれど」

おばさんはそう言っていたけど、何も日本人全員が日本舞踊やるわけじゃないんだから気にしなくていいのに。
90 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:24:15.92 ID:9pdDfgPfo
 
昨日までパーティーの会場だった広間はけいこのためにすっかりかたづけられていた。
エミリーはその広い部屋の真ん中で着物に身をつつんで、先生らしき人の手拍子に合わせてふり付けをくりかえし練習しているらしかった。

「《エミリーさん、もっと腰を落として》」
「《はい、先生……》」

エミリーはがんばってるけど、あれは多分あたしよりへたくそね。
まあしかたないか、まだ小さいし。それに……あんまり楽しくなさそう。

「《ママ……やっぱり、ブヨウはむずかしくてイヤ》」

きゅうけいの時間にさしかかると、エミリーはおばさんにかけより抱きついてそう言った。

「《キモノもおなかが苦しいし、セイザも足がいたいし……》」
「《駄々こねないの。 昨日のお友達が来てるわよ》」

それを聞いて真っ先に後ろを向いてあたしを見つけたエミリーは、
うれしそうに「ヨリチャン!」とさけびながらブンブンと大きく手をふって来た。
昨日ちょっと遊んであげただけなのにすっかりあの調子。しょうがないわね、とあたしも手をふり返してあげる。

「おけいこ、がんばってね」
「ハイ!」

こらこら、そんな大マタで走ろうとしたらこけちゃうから。
91 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:25:40.89 ID:9pdDfgPfo
 
けれど練習がもう一度始まるとエミリーのさっきの元気はどこへやら、またいやいやそうにおどっていた。おばさんに質問してみる。

「あの子日本舞踊、きらいなの?」
「Hmm...」

どうやらおじさんとおばさんに言われて始めたみたい。

「……そうだ、良かったらお手本を見せてもらえないかしら?」
「えっ、あたしが?」

おばさんは急にそんなことを言いだした。
だから日本人だって舞踊はめったにやらないわよ、たしかにあたしはちょっとならできるけど……

「それに、着物もないし」
「いいえ、あるわ。 たぶんあなたにちょうどいいのが」

いきなりそんなこと言われても……むずかしいことは大して覚えてないのに。

「……しょうがないわね」

だけどなんだかすっごく期待されちゃってるみたいだから、水瀬のむすめとして、ここで「できません」なんて言えないような気がした。



おばさんが持ってきてくれた着物は運よくあたしにぴったりのサイズだった。

「《エミリー、よりちゃんがブヨウを踊ってくれるそうよ》」
「《本当に……?》」

それらしい会話をこっそり聞きながら、部屋のはしっこでスタンバイ。おばさんにまで名前まちがえられてるし。
それに今さらだけど、どうしてあたしがこんなことしなきゃいけないのか……いちおう、お客さんでしょ?

──けれど、のりかかった船ってやつだし、昔やったことを必死に思い出しながら、めいっぱいやってみた。
自信なかったけど、何とか一曲舞ってみせる。
92 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:26:41.37 ID:9pdDfgPfo
 
ようやく終わったと思って周りを見てみると、おばさんと先生はにっこりしながら拍手をくれた。最後に小さくお辞儀をする。
エミリーはというと──まぶたをぱちくりさせて、目をキラキラさせながら「Wow...!」とか言ってた。

「That was beautiful...!」
「あ、ありがとう……」

とりあえずほめられていることは分かったので、悪い気はしない。

「《ママ……! すごかった! かっこよかった! キモノもすっごく似合ってる!》」

おばさんの服のそでをつかんで、エミリーがこうふん気味に言っていた。

「《エミリーも練習すればあのくらい上手くなれるわよ》」
「《本当に? なれる?》」

先生も日本語が話せるようで、「さすが本場の技ですね」なんて言ったりして。

「……ま、まぁ、この伊織ちゃんにかかればこんなもんよ!」

なんだかさんざんもてはやされていい気になっちゃったもんだから、ついついそんなことを言ってしまった。

「日本舞踊なんてかんたん。 だってあたし、“大和撫子”だもん!」

エミリーは「そんけいのまなざし」をあたしに向けてから、ちょっとずつ顔に「?」をうかばせる。
93 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:27:45.02 ID:9pdDfgPfo
 
「……ヤマ、タナ……?」
「《ヤマトナデシコよ、エミリー》」
「《ヤマ、ト、ナデシ、コ?》」

おばさんのまねをして何度かくり返したあと、あたしにたずねてきた。

「ヨリチャン、ヤマトナ、デシコ?」
「やまと、なでしこ。 ……そうよ」

ゆっくり、お手本をするみたいにもう一度言ってあげる。

「きれいでつつましやかな日本の女の人のことをそう呼ぶの」
「《……きれいでつつましやかな……》」

エミリーはその後何度も何度も、忘れないように同じ言葉をずっとつぶやき続けていた。



「ヤマトナデシコ……」
ときどき、あたしをじっと見ながら。


────────

────

──
94 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:28:42.37 ID:9pdDfgPfo
 


気がついたら朝になっていた。

あのまま私はエミリーの隣について、ベッドに寄りかかるように眠っていたらしい。
焦点の定まらない両目で床のカーペットに視線を投げる。散乱した自分の前髪が嫌になるほど不気味だった。

「……何やってんだろ、私」

目にかかって鬱陶しい残りの前髪をたくし上げて、腕にひっかけていたヘアゴムで適当に縛りつける。
部屋の隅に置かれた姿見に映る自分の姿は、まるでその見た目だけ昔に戻ったような気分だ。
眠っているエミリーに近寄って、顔をよく見てみた。まだすこし腫れぼったい両目をしっかりと閉じて、静かに規則的な呼吸音を立てている。

右頬をそっと撫でてやると──エミリーはゆっくりと目を開けた。

「《あ……ごめんなさい、起こすつもりじゃ……》」




「……伊織さま……?」




エミリーは眠そうな目をこすり、部屋を一通りくるりと見渡し、最後に私を見て、とろんとした声で言った。

彼女の発した言葉を理解した瞬間──心臓を締め付けていた蔦が一斉に解ける。
95 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:29:44.51 ID:9pdDfgPfo
 
「……エミリー……?」
「……あれ、どうして……? ここは……」
「……エミ、り……っ……」

何ヶ月も何年も彼女の声を聞いていなかったような、そんな気がした。
見えるもの全てが水底に沈んでゆらゆらと揺れ始める。
体を起こしたエミリーを手探りで抱き寄せて、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を彼女の寝間着へ押し付けるように目いっぱい抱きしめながら、
わんわんと止まらない泣き声を力任せに上げ続けた。

「伊織さま? どうかされたんですか? どうして泣いているのですか……?」
「ぢがうのっ……よかっ、よがっだ……う゛ぅ……わ゛あぁああぁあぁっ…………!」

はじめは驚いて少しうろたえていたエミリーは、ずっとずっと情けなく泣き喚いている私の頭をそっと包み込むように撫でてくれた。

「え゛みりぃっ……! え゛みりい゛ぃっ……! っぐ、うあ゛あ゛ぁあああぁっ……!」
「……大丈夫ですよ、伊織さま」

私が泣き止むまでずっと撫で続けてくれた。



「私は……エミリーはここにいますよ……」
96 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:31:17.62 ID:9pdDfgPfo
 
──────

夕方、ロンドンにいる伊織から着信があった。

「本当なのか!?」
「えぇ、今はもうすっかりいつも通りよ……上手くいって良かった……!」
「……そうか……」

大きく息を吸い込んで、胸の奥からこみ上げるものをこらえる。

「できるだけ早い飛行機を取ってそっちに戻るから待ってて。 本当に……ありがとう、プロデューサー……」
「何でだよ、礼を言うのはこっちのほうだ……気をつけてな」
「ええ」

通話を切った後、どうしても我慢しきれずに目元をゴシゴシと拭った。

「みんなに知らせないと……!」

事務所を飛び出して、大急ぎで報告に向かう。
97 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:32:05.18 ID:9pdDfgPfo
 


数日後、劇場にようやく姿を現した伊織とエミリーの二人を、控え室でまだかまだかと待ち構えていたアイドルたちはそれはもう盛大に迎えた。

ホワイトボードにはまるで誕生日と正月とクリスマスが同時にやって来たみたく、
まさしく全員からびっしりとエミリーへの喜びのメッセージが書き込まれている。
何の祝いと勘違いしたのか、所々からクラッカーのはじける音さえ聞こえてくる始末。

「パーティーかなんかだと思ってるのか?」
「まあまあいいじゃないですか。 今日は皆で喜びましょう!」

青羽さんも俺の隣でその様子を遠巻きに眺め、ニッコリと笑顔を浮かべている。
今日に限っては社長と音無さんも劇場を訪ね、文字通り765プロ全員集合といったところだ。

「なんだか、ご心配とご迷惑をおかけしてしまったようで……すみません」

控えめに謝るエミリーの周りには順番にアイドルたちが殺到して、すっかり元通りになった仲間の復帰を心から喜んでいるようだった。

ただ──彼女らには、エミリーに伏せておいてほしいこと、それだけはエミリーに絶対言わないでほしいということをあらかじめ伝えてある。



「……仕掛け人さま!」

もみくちゃの人だかりが少しずつ散り、誰が主役か分からない単なるどんちゃん騒ぎにこの場が変貌するいつもの流れになりかけたとき、
エミリーがこちらにやってきた。
98 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:32:53.41 ID:9pdDfgPfo
 
「お帰り、エミリー」
「はい。 私も、何が何だかまだよく分かっていないのですが……仕掛け人さまにも、ご心配をおかけしてしまったようで……本当にすみません」

エミリーはペコリと頭を下げる。

「そんなの気にしなくていいのに」

戻ってきてくれて嬉しいだけだよ、と言うと、彼女は安心したようにふわりと笑った。

「ただな、安心ばっかりしてもいられないんだ。 俺はプロデューサーだからな……エミリーが無事に戻ってきた以上、次のことを考えなくちゃいけない」
「私はもちろん、すぐにでもまた公演に出させていただきたいです」

その熱意がきっぱりと返ってくる。

「じゃあスケジュール調整からだな。 もちろん無理はさせないけど、エミリーの希望ならすぐにでも」
「はい!」

よろしくお願いします、とエミリーはまた丁寧にお辞儀をしてみせた。
99 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:35:12.99 ID:9pdDfgPfo
 


エミリー・スチュアート復帰公演の告知を行ってから、その日のチケットが通常の何倍もの早さで売り切れたことはただの偶然ではないだろう。
誰もが彼女の帰りを待っていたという確かな証だ。

その夜。何曲かで他のメンバーがステージを温め──みんなには申し訳ないが、今日に限ってはどの演目も前座に過ぎない──、
観客たちがいつだまだかと痺れを切らし始めるギリギリのタイミングでついにお待ちかねの時間がやってくる。

照明を全て落とし、真っ暗になった劇場がほんの少し静まったタイミングを見計らうかのように「だってあなたはプリンセス」のイントロが鳴り響いた瞬間、
まさしく劇場全体が震えた。
舞台袖にいた俺も思わず後ずさる。
およそ一ヶ月ぶりの公演。この劇場ではおそらく体感したこともないような、
バックミュージックがかき消されんほどのとんでもない量の大歓声を浴びながらステージに現れたエミリーとまつりは、
いつも以上に息をぴったりと合わせ、まさしく本物の双子のように鏡合わせで踊り、歌った。
100 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:36:16.34 ID:9pdDfgPfo
 
観客席のほとんどはエミリーのシンボルカラーであるバイオレットのサイリウム一色で埋め尽くされ、
そこにエメラルドグリーンの光がちらほら混ざっている。

圧巻の光景だった。

揺れる何百何千の光の中心にいる二人の表情を遠くからチラリと覗いてみる。
エミリーはとても楽しそうでにこやか、まつりは……同じように楽しそうだが、何かをこらえているようにも見えた。

「あー、こりゃあれだな」

しょうがないよなぁ、とこっそり呟いた。彼女はとくにエミリーのことを心配してくれていた一人だから。

『音声さん、終わったらいっぺん二人のマイク切っといてください』

念のため無線で連絡を入れておく。


曲が止まり、一際の大きな歓声に包まれる中、ついにまつりは我慢しきれずに隣のエミリーに飛びついた。
肩をかすかに震わせながら、エミリーの足が浮いてしまうほどにぎゅっと力強く抱きしめていた。
ぎょっとして固まっていたエミリーも──ゆっくりとまつりの背中に腕を回す。

二人はしばらく抱き合ったままその余韻に浸り、歓声と拍手はその間も鳴り止む隙がなかった。
101 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:37:40.76 ID:9pdDfgPfo
 
その後も数曲ずつ空けてエミリーの出演するステージは大盛り上がりを見せた。

“Princess be Ambitious!!”ときて“Eternal Harmony”、最後にはソロの“はなしらべ”。
どれも割れんばかりの歓声に包まれ、曲が終わればメンバーはエミリーに駆け寄り彼女の復活を祝った。

本人が望んだとはいえまたステージに立たせるのがあまりに急だったのではという心配もなかったわけではないが、
俺の不安を容易く払拭するかのようにエミリーは完全に以前どおりのパフォーマンスを披露してくれる。
結局俺には彼女にしてやれることなどほとんどなかったが、こういう結末を迎えられたのならなにも言う事はない。



『……私エミリースチュアート、ようやく戻ってまいりました。 今までたくさんのご心配をおかけした事をお詫びいたします……』

“はなしらべ”の演奏がおわり、エミリーはステージに一人残って改めてごヒイキ様方への挨拶の言葉を述べていた。
相変わらず、衣装のブーツを脱いで裸足になり、正座になったままでゆっくりと言葉を並べていく。
102 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:38:56.42 ID:9pdDfgPfo
 
「エミリーはしっかりやってる?」

ずっと彼女の様子を眺めていると、後ろから声をかけられた。伊織だった。
前髪を全てたくし上げ、リボンつきのカチューシャで留めている。
その見た目が、この事務所で初めて伊織に出会ったころを思い出させた。

「よっ。 その髪型懐かしいな」
「何よ。 伸びたらまた戻すわよ……」

伊織は恥ずかしそうに一瞬こちらを睨みつけ、視線を逸らした。しばらく二人でエミリーを眺める。

「──全然知らなかったよ、二人のこと」

少し間を置いて、伊織のほうを見ずにそっと話しかけた。

「何で話してくれなかったんだ?」
「わざわざ言うようなことじゃないからよ」
「伊織はいつから気づいてたんだよ」
「エミリーとこっちで初めて会ったときからね」

伊織もこちらを見ずに続ける。

「ただ、エミリーのほうはずっと気づいてなかったみたいだし。 わざわざ打ち明けて、恩着せがましいことはしたくなかっただけ」
「でも、バラしたんだろ? だったら──」
「エミリーは知らないままよ」
「そうなのか?」

尋ねたと同時に、そうだったと思い出す。

「だってあの子、今度は頭を打ってから元に戻るまでの間の記憶が全くないんだもの」
103 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:41:47.91 ID:9pdDfgPfo
 
今のエミリーは、日本語が分からなくなっていたことも、昔の記憶を失っていたことも、何も知らない。
社長とも相談して、その事実は一切彼女に知らせないことにした。

何もなかったことにする──他のアイドルたちに徹底させたのはこのことだ。



「──あの子の中では、自分が一ヶ月近く気を失ってたことになってる」
「それはそれで、ちょっと戸惑っちゃうことだとは思うけどな」

おそらく冷静ではいられなかっただろう。
そんな中、目を覚まして真っ先にまた戻りたいと言ってくれたエミリーの想いをみんなで尊重した結果が、今日のこのステージだ。
大成功に終わってとりあえずは一安心だが、まだまだみんなで支えてやらないといけない。

「当然、私たちや事務所のみんながあの子の為にやってきたことも……本人は知る由もないってことなのよね」
「……不満か?」
「まさか」

伊織はゆっくり力強く否定した。

「エミリーが無事に帰ってきた。 これ以上何を望むって言うの?」
「同感だね」

ステージではエミリーの言葉一つ一つに温かな拍手が送られ、時折彼女を呼ぶ声も聞こえる。
エミリーはその声一つ一つに応えるように手を振っていた。
104 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:42:40.99 ID:9pdDfgPfo
 
「──そうそう」

もう心配はなさそうね、と控え室に戻ろうとした伊織を引き止める。

「この後ちょっとしたサプライズを用意してるから、伊織はこのままここにいてくれ」
「はぁ? 復帰したばかりのエミリーにそんなことするの?」
「エミリーじゃないよ」

どうやらスピーチが終わったようで、長めの拍手が続く。

『──ここで、お呼びしたい方がいらっしゃいます』

エミリーが舞台袖にいる俺たちの方を向いた。

『伊織さま! 伊織さま、どうぞこちらへ!』

伊織の体がピクリと反応した。

「えっ、わ、私?」
「ほら、呼んでるぞ。 行ってやれよ」
「待ってよ、サプライズって私に対してなの!?」
「いいから、ほら行ってこい!」
「ちょっと──」

ポンと背中を押してやると、伊織は渋々ステージの真ん中まで歩いていく。
また大きな拍手と、時折挟まる伊織への声援に笑顔で対応しながら、伊織はエミリーの真横についた。
105 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:44:35.10 ID:9pdDfgPfo
 
『休養中、私はたくさんの方々に支えて頂きました。 事務所で共に活動しているみなさん、仕掛け人さま、そしてごヒイキの皆さま、大勢です』

正座の姿勢を伊織に向けて、エミリーはじっと伊織を見つめた。

『その中でも伊織さまにはとくにお力を頂いたと、皆さんから教えていただきました。 今ここに居られるのは間違いなく、伊織さまのおかげです』
『エミリー……』
『……本当に、ありがとうございます』

ステージに両手をつき、エミリーは深々と頭を下げる。

『…………』

伊織は少し困っていたものの、その次には──自分もゆっくりと、エミリーと同じようにブーツを脱ぎ、
エミリーを正面に膝をついて、同じようにエミリーに向かって礼をしてみせた。

「伊織……」

大和撫子が二人、同じステージにいるようだった。
また拍手が沸き起こり、伊織はすぐさま立ち上がっていそいそとブーツを履き直す。

『あんたも、もうよしなさい』

言われて、エミリーも立ち上がる。とても幸せそうな笑顔を浮かべていた。
106 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:45:25.26 ID:9pdDfgPfo
 
ようやく衣装を元に戻し、エミリーは切り出した。

『──伊織さま。 よろしければ、私と二人組の曲を歌っていただきたいのですが……』
『デュエット……って……アレ? 劇場でやったことなんてないでしょ?』
『はい。 ですが私は、伊織さまと歌いたいんです』
『……振り付けもないのに?』
『仕掛け人さまには、許可をいただいています』
『……全く……こういうときだけ準備いいんだから』

伊織がこちらを睨んできたので、ヒラヒラと手を振ってやった。

『……いいわよ。 伊織ちゃんからの復帰祝いだと思いなさい』

観念したかのように承諾してくれた。

『Yes! ……はっ! つい英語が……』
『……あんたもまだまだね。 にひひっ』

すでにCDでは出している歌なので、知ってくれているファンも多い。
予想を裏切る展開に、観客席からざわめきめいた歓声が沸いた。

『じゃあ、曲紹介してくれるかしら?』
『はい!』

エミリーがまた前を向く。
107 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:46:24.04 ID:9pdDfgPfo
 
『ごヒイキ様方。 この曲は──大切なお友達となら日々の些細な風景も、わくわくと驚きの出来事に変えられる。
 そういう幸せを、いつまでも大事に分け合いたい……そんな想いが詰まった歌です』

二人で目を見合わせ、

『私、エミリースチュアートと』
『水瀬伊織の』
『一夜限りの二人の舞台、お楽しみくださいませ!』
『聴いてください──』

タイミングを合わせたかけ声に続いて、ピンクと紫に照明のカラーが変化していく。


『『“Little trip around the world”』』


リズミカルなピアノの伴奏がご機嫌に走り出した。
伊織とエミリーはただステージの真ん中で、リズムに合わせてピョコピョコと揺れながら、それぞれに特徴的な可愛らしい歌声を交互に音へのせていく。

いつまでも続いてくれるような錯覚さえ与える、緩やかで暖かな時間。
その時間を彩る優しい歌声を、765ライブ劇場の真ん中から、伊織とエミリーは心から楽しそうに響かせていた。



ずっと、二人仲良く手を繋いだまま。
108 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:47:35.34 ID:9pdDfgPfo
 
──

────

────────

今日はおばさんとエミリーのお買い物にいっしょについていくことになった。

エミリーったらウッキウキでよろこんじゃって、そんなにお買い物好きなのかしら。
あたしは自分でしたことないからわかんない。いっつもメイドたちがやってくれるし。

「きっとヨリチャンと一緒だから喜んでるのよ」

へぇ、そう……ま、まぁ、好かれるのは悪い気はしないから良いけれど。

「《ヨリチャン、スーパーマーケット行ったことないの? わたしがおしえてあげる!》」
「張り切っちゃってるわねぇ」
「《まずはね、入るのにメンバーズカードがいるの。 それで……》」

おばさんも困ったようにわらってた。別に教えてもらうことなんてないわよ、もう。
109 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:48:14.29 ID:9pdDfgPfo
 
スーパーマーケットって意外とおっきい。うちのおやしきとおんなじくらい。
お店に入ってすぐ、おばさんが買い物カートをとって押し始める。

「《わたしがおす!》」

エミリーはそう言ってたけど、意外に重かったみたいでぜんぜん前に進んでない。

「……しょうがないわね。 エミリー」
「?」

ちょっとだけ左によってもらって、右の取っ手をつかんだ。

「ふたり、で、おす。 OK?」

エミリーはにっこり顔でうなずいた。あたしもあまやかしちゃってるのかもね。
けど、むじゃきなエミリーは正直言ってかわいい。
110 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:49:15.08 ID:9pdDfgPfo
 
「ふふっ。 だったら、お買い物頼んじゃおうかしら?」

おばさんが言った。

「えっ、二人で?」
「エミリーにメモは渡してるから、一緒に探して来てくれない?」
「《二人で行く!》」

エミリーはまたまたはりきっちゃってる。あたしここのことなんにも知らないんだけど。

「大丈夫なの?」
「大丈夫よ、 ああみえてエミリーは一人でもできるから」

へぇ、そうは見えない。

「二人で楽しんでらっしゃい!」

見送られて、最初のさがしものをエミリーに聞いてみた。
日本語でなんて言うか分からないみたいで、メモの一番上をゆびさした。

「“cucumber”…あぁ、“きゅうり”ね」
「……ワカル?」
「ええ」

エミリーはむこうを向いて、「アッチ!」とだけ言った。
周りを見てみるとたしかにいろんなものがいっぱいあってちょっとおもしろい。
それにエミリーのニンマリした横顔をみていると、なんだかこっちまで楽しくなってきちゃう。ふしぎな子ね。
111 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:50:56.38 ID:9pdDfgPfo
 


「じゃあ、行くわよエミリー……レッツゴー!」
「Let's go!」


まさかこんな外国で出会った女の子とこんなになかよくなるなんて、思ってもみなかった。
だけどエミリーはすっかりあたしになついてくれてるのがわかる。

……あたしも、ちょっとくらいはこの子のこと、友達だと思ってあげてもいいかも。



ゆっくりとそろってカートを押し始めると、まるで小さな世界旅行がはじまったみたいだった。

https://www.youtube.com/watch?v=oO2mHe8jAy0
112 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:55:49.30 ID:9pdDfgPfo
 


パパのお仕事が終わったみたいで、あたしが日本に帰る日が来た。
エミリーのおじさんが空港まで送ってくれるらしいから、パパといっしょに車で連れて行ってもらうことになった。



「すみませんね、ずっと娘の世話をしてもらって。 いろいろ仕事が立て込んで……」

助手席にすわっていたパパが言った。

「いえいえ。 エミリーがずっとイオリちゃんに遊んでもらって、とても楽しいって言ってました」
「そうでしたか、それは良かった」
「《そうだろ、エミリー?》」

後ろの席にとなりあってすわっているエミリーは、おじさんの言葉に小さくうなずいてそのままずっとだまってた。
113 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:56:42.98 ID:9pdDfgPfo
 
空港についても、エミリーはずっとだまったままだった。きのうまではあんなに元気だったのに。



ひこうきの時間までどれくらいあるか分からないけど、そろそろ中に入らなきゃってパパに言われて、本当にお別れの時間がやってきた。

「おじさん、お世話になりました。 おばさんにも伝えてください」
「もちろん。 またいつでも来てね」

おじさんにぺこりとごあいさつをした。

「……エミリー?」

エミリーは今日あたしの顔を見ようともせずに、ずっと下を向いてた。
いつもよりもっと小さくなってるエミリーの正面に立って、パパに教わった英語で、話しかけてみる。

「《楽しかったわよ、ありがとうね。 元気で》」
「《……ヨリチャン……行かないで……》」

エミリーはとたんに顔をクシャクシャにしかめて、ボロボロなみだを流しはじめた。
あーあもう、だめじゃない……
エミリーはそのまま止まらなくなって、わんわん泣き出しちゃった。
114 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:58:17.24 ID:9pdDfgPfo
 
「《エミリー、泣いてても伝わらないぞ。 ほら、お友達になんて言うんだった?》」

おじさんが背中をさすってあげると、ちょっとだけ落ち着いたのか、
エミリーは顔をなみだと鼻水でぐしょぐしょにしながら何とか口を開いた。日本語だった。

「……ワタシ、ヨリチャン、ノ、コト、ワスレナイ……」
「うん」
「ヨリチャン、カッコヨクテ、ステキダカラ……ダイスキ」
「……うん」
「ワタシ……ヤマトナ、デ、シコ、ニ……ナル……ヨリチャン、ミタイニ……」
「……そう。 大和撫子になりたいの?」

また泣き始めるエミリーの頭をなでてやった。

「じゃあ日本舞踊と、日本語の勉強がんばんなさい。 伊織ちゃんの100倍くらい努力すれば、なれるかもね」

エミリーは必死にコクコクとうなずいていた。

「《……これ、あげる》」

かばんからエミリーが取り出したのは、小さな黒いつつだった。

「これ、何?」

ふたを開けてみると、中には一枚の絵が入っていた。あたしとエミリーが描かれた絵だった。

「……あんたがかいたの?」

エミリーがうなずく。
115 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 23:59:56.61 ID:9pdDfgPfo
 
あたしはしばらく考えて、パパのほうを見た。

「どうしたんだい?」
「パパ、書くものある?」

ペンを借りて、エミリーがくれた絵のはしっこにすらすら書きくわえていく。

「……?」

書き終わって、わかんないだろうけど、いちおうエミリーに見せてあげる。

「……これは、エミリーが持ってなさい」
「……?」
「これがあれば、伊織ちゃんのこと一生わすれないでしょ?
 ちゃんと勉強して、いつかそれが読めるようになったら日本にきなさい! そうすればまた会ってあげる」
「…………」
「わかった?」

おじさんが顔を何度ふいても、エミリーは何が何だかわからないくらいまた顔をぐしゃぐしゃにして、何度も何度もうなずいた。

「ワカ、ッタ……」
「約束よ。 見てて……日本ではこうするの」

エミリーに“指きりげんまん”を教えてあげると、エミリーはようやくニコッとわらってくれた。
そうそう。あんたはその顔がいちばんかわいいんだから。
116 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/11(火) 00:00:55.37 ID:RGC72AKso
 


「じゃあね、エミリー」
「サヨナラ、ヨリチャン」



空港のゲートを通った後も、ふりかえるたび、エミリーはあたしが見えなくなるまでずっと手をふってくれていた。



ようやく見えなくなって、あたしとパパだけになったしゅんかん、あたしはパパにだきついた。

「偉いなぁ、伊織は。 お姉さんだもんな」


パパはあたしが泣きやむまでずっと頭をなでてくれた。






“またね、大和撫子。”
117 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/11(火) 00:02:24.70 ID:RGC72AKso
 
──────



いつだって、あのときのことを忘れたことはありません。



大好きな日本。憧れの大和撫子。それを教えてくれた大切なお友達。
ずっとずっと貴女のことを想ってきました。

今はまだ私に気づいていないでしょうけれど、
いつか私がもっともっと努力を重ねて、本物の大和撫子になれたとき、
今度こそ私は貴女に会いに行こうと思います。
だから、そのときはまたあの頃と同じように私とお話してほしいです。
貴女の気高さと優しさに憧れて、私はここまで頑張って来られました。
日本語上手になったねって褒めて下さい。
私に負けない立派な大和撫子になれたわねって、褒めて下さい。
その日まで私はまだまだ頑張ります。

だからそれまで待っててね。







“よりちゃん”。

──────
118 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/11(火) 00:04:25.56 ID:RGC72AKso
 

https://i.imgur.com/iWom8q0.jpg



【エミリーが忘れた日 ・ おわり】
119 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/06/11(火) 00:08:31.34 ID:RGC72AKso
いおエミ…それは無限の可能性。


長いですがお付き合いいただきありがとう



別のミリオンSS(短い)↓

高坂海美「えっ、待ってこれ母乳!!??」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1552483357/

桜守歌織「元気モリモリ桜守ーっ♪」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1553779924/
120 : ◆NdBxVzEDf6 [sage]:2019/06/11(火) 01:14:49.10 ID:QnJN34LM0
外交官の娘だからと勝手に納得してたけど、こういう過去話があって今の感じになったていう設定好きだわ
あと765プロ英会話教室の話がよりちゃんにつながってるのいいね
乙です

エミリー(13) Da/Pr
http://i.imgur.com/9OpKKgh.png
http://i.imgur.com/NhzSoUN.jpg

>>7
水瀬伊織(15) Vo/Fa
http://i.imgur.com/H5vSE82.png
http://i.imgur.com/b1tfvJd.jpg

>>6
音無小鳥(2X) Ex
http://i.imgur.com/rJCkhta.jpg
http://i.imgur.com/ElSKgHB.jpg

青羽美咲(20) Ex
http://i.imgur.com/N78dpoq.png

>>12
百瀬莉緒(23) Da/Fa
http://i.imgur.com/lA2hT5h.jpg
http://i.imgur.com/K6xrSvf.jpg

真壁瑞希(17) Da/Fa
http://i.imgur.com/z6JtvVt.jpg
http://i.imgur.com/FIy4rBB.jpg

>>13
秋月律子(19) Vi/Fa
http://i.imgur.com/Sa3GLml.jpg
http://i.imgur.com/FUliF1H.jpg

>>15
如月千早(16) Vo/Fa
http://i.imgur.com/QSD17Wq.jpg
http://i.imgur.com/YhhIZrQ.jpg

>>16
徳川まつり(19) Vi/Pr
http://i.imgur.com/gibsFwR.png
http://i.imgur.com/1weF2P5.png

>>39
舞浜歩(19) Da/Fa
http://i.imgur.com/uCJprch.png
http://i.imgur.com/LhM3HZX.jpg

中谷育(10) Vi/Pr
http://i.imgur.com/ckiIlCt.png
http://i.imgur.com/OJziXCQ.jpg

箱崎星梨花(13) Vo/An
http://i.imgur.com/sNvbLWS.png
http://i.imgur.com/bDaf1XU.jpg

大神環(12) Da/An
http://i.imgur.com/5dRXgxU.jpg
http://i.imgur.com/jxS64Ts.jpg

木下ひなた(14) Vo/An
http://i.imgur.com/tOUxOO7.png
http://i.imgur.com/E2sNtCH.jpg

>>11
「Sentimental Venus」
http://www.youtube.com/watch?v=sc61TVMYuEk

>>15
「Eternal Harmony」
http://youtu.be/-dxufzS0ff0?t=86

>>16
「Princess Be Ambitious!!」
http://www.youtube.com/watch?v=do_JVQZGqXE

「だってあなたはプリンセス」
http://www.youtube.com/watch?v=8ThaAND6JTc

>>50
「はなしらべ」
http://www.youtube.com/watch?v=ImGjRmpvvCE
121 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/11(火) 04:45:50.12 ID:TWL7ZiSU0
乙。
シタじゃあまり語られないエミいおが素晴らしかったです!
外交官って新たに出た設定で幼い頃の二人を組み合わせてからの
little trip around the worldに繋げるのがまた好き
122 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/06/11(火) 13:37:16.98 ID:o319uoutO
おつ
方や外交官の娘、方や財閥の娘、確かに幼い頃に会っててもおかしくないな。こういうの大好きです。
123 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/12(水) 00:43:12.35 ID:KFidxtmTo
良いいおエミだった。掛け値なしに。
124 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/13(木) 02:16:08.47 ID:0zmRbUXd0
おつ
125 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/06/13(木) 14:44:06.67 ID:C7oVlqDXO
おつ良かった
126 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/15(土) 17:55:41.80 ID:AaLztLAJo
しゅごいでしゅ!
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