田井中律誕生日記念SS2016(must was the 2014)

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2 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/06(土) 21:40:49.54 ID:8onyAH8e0
1章

 この順番も彼女、田井中律で最後だった。
秋山澪は興味ない風を装って、
昔日から愛用している白いバラへと目を落としたまま聞いた。
だが、田井中律の明かしたスリーサイズは、彼女の体躯と照らして納得できる値ではない。
澪は手に持ったバラの白い花弁から、律の身体へと視線を移す。
そして上から下へ、続いて下から上へと、切れ長の瞳を往復させた。

 改めて見ても、自分の抱いた感覚に自信を深めただけだった。
やはり律の体型は、彼女が自ら申告した値を備えているようには見えない。
夏休みの部室に集う面々も、思いを同じくしているようだった。
澪を含む四人の視線が一点、律の胸部へと注がれる。

「何処見てんだよぉっ。言っとくけど、脱ぐと凄いんだからぁー」

 集った視線の意味を悟ったのか、律が喚いた。
スリーサイズを打ち明け合った場では、律の大胆な物言いも自然と溶け込む。
学期内とは異なる雰囲気が、話題にも口走った言葉にも見て取れた。

 夏休み前と今で違うのは、唯の席の斜め後ろの窓周辺だけではない。
休暇入りの直後に工事が行われたその窓は、見目に目立って装いを一新していた。
伴って、その周辺の家具の配置も僅かに動いている。
だが、インテリアの変化など些事に思える程、
夏休みが彼女達の精神に与えた影響は大きかった。

 夏季休暇に入って十日以上過ぎ、暦は八月に突入している。
多感な年頃にある彼女達の話題を夏休みが毒すには、充分な時間だった。
長期休暇は気分に開放を齎し、人気の少ない学校は部活に閉鎖性を齎す。
その双糸が、彼女達を際どい会話に導いたのだろう

「そんな、ムキにならなくてもいいじゃないですか。
私達だって正直に言ったんだから、律先輩も本当の事を言っていいんですよ?」

 澪達が属する軽音部の中で、唯一の後輩である中野梓が苦笑交じりに言った。
部員五人の中で一人だけ色違いの赤いタイが、
律と同じくらいにしか見えない胸元で結ばれている。
3 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/06(土) 21:42:12.48 ID:8onyAH8e0
「嘘なんかじゃないっ。澪やムギ、唯はともかく、梓には負けないんだからな。りっ」

 そう言って律が胸を突き出した。
胸に二つ尖る円錐の鋭角は、専ら梓のみへと向いている。
胸に鈍角の膨らみを盛り上がらせた紬や唯とは、張り合おうなどとしていなかった。
律も見目に明らかな分の悪さを理解しているのだろう。

 一方で、同程度の胸囲と思しき梓に対しては、対抗意識を剥き出している。
先輩としての矜持も透けて見えるようだった。
彼女に勝りたい気持ちが、律を詐称に走らせたのかもしれない。

「そぉ?ていうか、あずにゃんの方が少しだけ、大きく見えるような気もするけど。
少しだけ、ね」

 律や梓を構う好機と見たのか、平沢唯が茶化すような声音で割り込んだ。
唯は普段から、この二人へと頻繁に絡んでいる。
虐めと弄りは違うという思考の透けた、彼女なりの可愛がり方だ。

「もう。少しだけ、ってそんなに強調しなくてもいいじゃないですか」

 からかわれた梓が、棘のない穏やかな声音で唯に返す。
言葉とは裏腹に、律より上と認められた事で気を良くしているらしかった。
一方の律は不満露わに頬を膨らませ、唯と梓の胸部に険しい視線を送っている。

「駄目よー、身体の事をからかったりしたら。
りっちゃんに謝らないと、ね?」

 琴吹紬が唯を窘めた。
元々、律に甘い紬だが、それだけが擁護の動機ではないだろう。
紬自身、心無い人間から肥満だと嘲られる事が少なくない。
紬は虐めと弄りを同一視するらしく、そういった揶揄を許していないのだと推せた。

「えーっ?からかったりなんか、してないよー」

 唯が口を尖らせた。まだ、と頭に付ければ、その通りの発言ではある。
体型の事で茶化そうとしている態度を察せられ、紬が機先を制した。
それくらい、澪にも分かる。
4 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:43:28.87 ID:8onyAH8e0
「律も意地を張るなよ。大きければ良いって訳じゃないんだから」

 公平を期す訳ではないが、澪も律を諭しておいた。
唯は不満気だが、甘い物でも与えれば機嫌は直る。
だが、律は根に持つ性格だった。
紬の擁護を受けた今もまだ、瞋恚に燃えた瞳で唯と梓の胸を睨んでいる。
自分の主張が通らない事で、拗ねているのだ。

「意地なんて張ってないし。本当の事だもん」

 律は澪に対しても口を尖らせ反駁してきた。
反抗的な語勢が癇に障った澪は、バラの切っ先で律の口を指しながら睨み付ける。
生意気な態度も躾けてやらなければならない。

「まー、でも、大きければ良いって訳じゃないのは、その通りだけどー」

 途端に律は態度を軟化させ、澪の言を援用してきた。
惚れた側の弱みに違いないと、澪は所期の効果に内心で笑んだ。
付き合ってこそいないが、律は自分に惚れているという自信があった。
惚れた相手を前にして、真っ向から反目する度胸など律にはないだろう。

 それでも胸囲以外の事で迎合の姿勢を示すあたり、
律は主張の本旨を覆してはいなかった。

「あれー?りっちゃん、負け惜しみー?」

 唯は席を立って窓の前へと移動し、挑発的に胸を揺らしながら煽った。

 部室の窓枠のほぼ全てには、奥へスライドする方式の小窓が六つ装着されている。
唯の後方の窓も、夏休みの前までは例外ではなかった。
六つの小窓を一つの片開きの窓へと統合したのが、この夏休み初頭の工事である。
工事した窓の周辺は赤いビニールテープで囲まれており、
唯はそのビニールテープの作る四角い空間の中に位置を占めていた。

 目立つ場所に立ってまで律を挑発する唯の姿に、澪も呆れざるを得ない。
そこまでして、律に構ってもらいたいのだろうか。
5 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:44:24.74 ID:8onyAH8e0
「違うっての。事実じゃん。
大きいからって、唯は見せる相手も揉ませる相手も居ないじゃんかぁ。
サイズじゃないっていう、いい証拠だよ」

 律も唯の挑発を捨て置けば良いのに、彼女の掌の上で吠え立てていた。
自分の横槍が唯に付け入る隙を与えてしまっただろうか。
紬に任せておけば良かったかもしれないと、澪は思わないでもなかった。

 だが、律の胸は澪の肉欲をそそるに十分な用を為している。
自分に惚れているのなら、自分に対してだけ扇情的であれば良い。
婉曲であっても、その思いを宣せずには居られなかったのだ。

「そうだねぇ。でも、りっちゃんも居ないでしょ?
どうせ居ないなら獲得に有利な方、つまりは胸の大きい私の勝ちですなーあ」

 勝ち誇った笑みを唯が見せる。
対照的に、律の顔には悔しさが滲んでいた。

 そろそろ、唯の方を咎めるべきだろうか。
律を諭した所で、唯を調子に乗らせるだけだろう。

「もう。駄目よ、唯ちゃん」

 唯を叱ろうとした矢先に、紬が先行していた。
澪は出かけた言葉を、喉の奥へと押し戻す。
こういう役は、自分よりも紬の方が向いているとの判断からだ。
万事淑やかな彼女なら、場を荒立てずに唯も律も収められる。
そう思い、澪は黙って紬の次の言葉を待つ。

「居るもん」

 だが、澪の鼓膜を叩いた声は、穏やかな紬の声ではなかった。
激しい感情の籠もった、律の声音だ。
6 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:45:35.83 ID:8onyAH8e0
 紬と梓と唯の三様に呆けた顔が、一様に律へと向く。
彼女達と同じ表情を浮かべている自分の顔が、澪の脳裡を過ぎった。
律の言った事が理解できない。
それどころか、幻聴との区別さえ曖昧だった。

「彼氏、居るもんっ」

 呆けた澪達に突き付けるように、律が叫んだ。
それは空気を震わせて迫り、容赦なく鼓膜に叩き付けられる。
澪の中で現実と幻聴の区別が、別たれた。

「冗談、ですよね?」

 未知の物に触れるような口振りで放たれた梓の問いは、
取りも直さずに澪の嘆願を代弁していた。

 律が今まで自分に対して取ってきた、行動や言動の一つ一つが脳裏を巡る。
そこから恋情を汲み取っても、不自然ではないと思えるものばかりが。

「あーら、失礼な事言っちゃってぇ。
私にだって彼氏くらい居るし」

 だが、眼前の律は、澪の見通しを木端微塵に粉砕する発言ばかり続けている。
律から感じていた好意は、勘違いに過ぎなかったのだろうか。
或いは、勘違いさせられていたのか。
澪の自信が揺らぎ、変わって怒気が腹の底から湧いてくる。

「りっちゃんたら、逸早く抜け駆けしてたのね。いいなぁ」

 憧憬を滲ませた声音で紬が言う。
律を見つめる彼女の眼差しも、羨望に満ちていた。
澪には紬同様の態度で、律の発言を遇する事などできない。
落胆と怒りが視線に籠もらないよう、自分を抑えるだけで精一杯だった。
7 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:46:48.73 ID:8onyAH8e0
「えーっ?りっちゃんは私より先に彼氏を作ったりしないよねぇ?」

 唯が眉根を寄せて、律に問う。

「ふーんだ。胸ばっかり出てて度胸を出さずに、のろのろしてるからだ」

「りっちゃんの癖に」

 唯は頬を膨らませて、そっぽを向いてしまった。
拗ねた態度を隠そうともしていない。
唯にせよ紬にせよ、素直な反応だった。

「いや、やっぱりおかしいですって。
何で彼氏が居るって事、隠してたんですか?」

 梓も倣うかと思いきや、正面切って疑問を浴びせていた。
言われてみれば、と澪も胸中で同意する。
もし、律が恋人を作っていたのならば、自分が気付いているはずだ。

「隠してた訳じゃないって。別に訊かれてもいないのに、自分から言う事でもないからさ」

 梓に対しては、そうかもしれない。自慢のように聞こえて、宣する事は憚られるだろう。
だが、澪に対して一言も相談しないとは考えづらかった。
些細な事でさえ、律は澪の意見を求めてきている。
異性との交際など、澪に頼り切りの律が一人で処理できる事柄ではない。

 それ以上に、恋愛の当事者という重要な変化を遂げておきながら、
いつも傍に居る自分に勘付かれなかった事が不自然だ。
一体何時、逢瀬の刻を持ったと言うのだろう。

「隠れてなければ、気付くと思うんですけど。
そうだ、澪先輩。律先輩から彼氏が居るような素振りを感じたりしてました?」

 梓もそこに思い至ったらしい。
自分達はまだしも、澪には勘付かれるはずだ、と。
8 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:47:44.51 ID:8onyAH8e0
「おいおい、私に聞くなよ。
別に律なんかの一挙手一投足に注意を払ってる訳じゃないんだからさ。
どっかで男を誑してても、気付きやしないよ」

 澪は突き放すような語勢で答えた。
不自然な点を見つけたからと言って、澪の怒りは収まっていない。

「ほーら、澪先輩だって気付いていないみたいですよ。
で、何で隠してたんですか?それとも」

 梓は意味深に言葉を切ると、細めた目で律を見つめた。
律の事など興味がないと澪は言った積もりであったが、梓の受け取り方は異なっている。
自説に有利な部分だけ抽出し、律への詰問に充てていた。

 律に恋人ができると、梓にとって不都合な事でもあるのだろうか。
そう思わせる必死さが、彼女の論法に見え隠れしている。

「いいじゃない、きっと恥ずかしかったのよ。
大丈夫よ、りっちゃんの彼氏さんなんですもの。いい人、なのよね?」

 浮かれていた調子から一転、紬が声を引き締めて問うた。
同時に、梓の瞳が真剣さを帯びる。
澪も梓の真意を理解した。それは間を置かず、共感へと変わる。

 梓は律が悪い男に誑かされていないか、心配なのだ。
箱の外に疎い律が男を選るに当たり、自衛まで見据えられるとは考えづらい。
逆に、甘言に釣られてしまう危うさがあった。

「うん。いい人だよ。ダァったら、恰好良くって、頭も良くって、スポーツも得意なんだ。
優しくて甘やかしてくれるし、お姫様みたいに扱ってくれるんだけど、
でも、恥ずかしい事もやらせてきたりして。
うん、辱めてきたりもする、サディスティックな面も持ってて。
りーっ」

 言っているうちに恥じ入ったのか、律は赤く染まった顔を両手で覆って呻く。
9 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:48:38.43 ID:8onyAH8e0
「それ、りっちゃんの願望?そんな都合の良い人、居ないよねぇ」

 唯にしては珍しく、世間の人間像に拠った意見だった。
だが、当事者の心理状態にまでは寄り添っていない。
痘痕も笑窪。
欠点が多く長所の少ない相手でも、強烈に惚れてしまえば完璧な人間像をそこに見る。

「そうですか?なんか聞いてて、澪先輩みたいな人だなって思いましたけど。
律先輩には、澪先輩みたいな人が似合うかもしれませんね。
実際、似ているんですか?」

 邪気のない梓の声に、澪の心臓が跳ねた。
自分だけが律に似合っている。
それは、澪が長らく確信してきた命題だ。

「はぁ?全っ然っ違うし。何を聞いてたんだよぉ」

 律は梓の謳ったテーゼに、偽と回答するらしい。
殊に、喚き散らす強い語勢が、澪の癇に障った。
そこまで嫌なのか、と詰め寄りたくなる。
澪の気分をこの上なく害す、生意気で反抗的な態度だ。

「ああ、全く以って似てないな。大体、私がこんなのをお姫様扱いするか。
優しくする気にも、甘やかす気にもなれないな」

 澪は怒りの侭に言い放つ
尖る言葉も刺す語調も構わずに突き放してやった。
律の強張る顔を見ても、溜飲は下がらない。
その頬を張ってやったら、少しは怒気も収まるだろうか。
このバラの白い花弁が赤く染まるまで傷付けてやったら、気も晴れるだろうか。
いっそ、押し倒してしまおうか──
10 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:49:45.50 ID:8onyAH8e0
「いや、あの。似てるって言っても、完璧な所が、って意味で。
澪先輩、恥ずかしい事とかはやりたがらないし、やらせたりもしませんものね」

 律と澪の反論の勢いが予想外だったらしく、梓は慌てたように言い繕っていた。
悪意のない軽口を咎めた形になって、澪も決まりが悪い。

「ああ、分かってるよ、冗談だって事くらい。
第一、私は完璧じゃないからな」

 澪は朗らかに笑って、詫びに代えた。
反面、笑顔の裏に隠した心中で呟く。
唯の言うように律の願望であるならば、恥ずかしい振る舞いを強要するに吝かでない、と。

 一方の律は発言を繕う事なく、黙ったままだった。
自然、話の流れに間が訪れる。

「ねー、りっちゃん。その彼氏とは、いつデートしてるの?」

 話の切れ目に唯が割り込んで、話題を変えてくれた。
尤も、雰囲気の軟化に加勢した訳ではないだろう。
間が空く機を見計らうかのように、唯は律から視線を逸らしていなかったのだから。

「いつって。そりゃ、時々、としか。学校も部活も、唯達との約束もない時にしてるんだよ」

「ははぁ。ヤリ目ですなぁ。遊ばれてたりして?」

 唯の言葉に、特徴的な紬の眉根が眉間に寄る。
そして梓と律の反応は、殊に顕著だった。

「唯先輩っ?」

「はぁっ?どういう発想だよぉっ。信っじらんないっ。唯ったら何なのよ、もー」

 梓は唯の名を叫んで固まり、律は忙しく言葉を並べて抗議している。
11 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:51:14.79 ID:8onyAH8e0
「いやぁ。だって、私達と居ない時って言うと、夜でしょ?
その時間なら、やる事は決まってるよねー?
脱いだら凄いんだもんね?」

 唯は律と梓の反応を楽しむように、二人を窺いながら言った。
唯は本当に、恋人が居るという律の話を信じていないようだ。
故に、恋人が居るように繕う律と、それに釣られて右往左往する梓が愉快で堪らないらしい。

「何言ってるんだよ。部活だって毎日ある訳じゃないし。
そういう時に毎回、澪と会ってる訳じゃないんだよ。
空いた日にデートしてるのっ」

 律も唯から信じられていない事を認識したのか、返す言葉に苛立ちが篭っている。

「夏休みはいいけど。学期中は大変だったよねー。
私達と会わない休日の日中に、誰の目にも付かずにデート、だもんね」

 唯が楽しげな笑みを崩さぬまま言った。
唯は虚言を証す材料を、一つ明かした気で居るらしい。

 だが、決して白昼に逢瀬を重ねられる日がなかった訳ではない。
第一、唯の推量は、昼の逢瀬の困難さを指摘しただけに終わっている。
唯が冗談交じりに言及した、夜に会って褥を共にしている可能性は残り続けるのだ。

「あーら、仰る通り、大変でしたのよーだ。
でももう、周知の話になっちゃったから、予め言わせてもらうからね。
今月の私の誕生日だけど、部活休む。ダァとデートするんだもん」

 皮肉の込もった声音で唯の言葉を肯んじた後、
律は一転させた毅然たる声調で逢瀬を宣していた。
嘘を尤もらしく見せる方便かもしれないし、
本当に恋人と誕生日を共に過ごすのかもしれない。
澪は判断の量りを一方に傾かせる事ができぬままだ。
12 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:52:24.25 ID:8onyAH8e0
「あっ、やっぱり誕生日は彼氏とだよねー。いいなー。
そうだ、りっちゃんや、周知になった序に、一つお願ーい」

 唯が勿体ぶった声音を靡かせ、律の顔を覗き込んだ。
唯は愉快な事を思い付いたらしく、口元が緩んでいる。
推量を働かせるまでもなく、唯にとって”は”愉快な事に違いない。

「お願いって、どんな?」

 唯の口から何を頼まれるのか。律は慎重な口調で問うていた。
眇めた目と引いた顎にも、律の警戒が表れている。

「そのデート、私達も影から見てていい?」

 大胆な要求に、澪は呆れる外なかった。
恋人の存在が偽であれ真であれ、律が呑むはずなどない。
偽にベットしている唯は、不可能な要求で律を困らせたいのだ。
そこは澪も理解しているが、唯の戯れは度を越しているとも思う。

「まぁ、素敵ね。私もりっちゃんの彼、見たいなー」

 律が言葉を失くしているうちに、紬も便乗の声を上げていた。
唯が律の身体面の特徴を笑いの種にしていた時とは違い、
彼女の過ぎた戯れを叱ろうとはしていない。
それどころか、加勢さえしている。
厳格な道徳心を所作で示す事はあっても、紬も年頃の少女なのだ。
同級生の浮いた話に、無関心で居られるはずもない。

「ええ。私も見に行きたいです。
勿論、ちゃんとした方だとは思っていますけど」

 梓までも同調を示した。
紬を向こうに回した痛手の律に、包囲となって襲い掛かる。
13 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:53:22.68 ID:8onyAH8e0
 尤も、二人とも律の敵ではない。
紬は律の話を信じており、そして梓は律を心配している。
律に対する害意は欠片もなく、好意から出た言動に他ならなかった。
ただ、好意が必ずしも本人の意向に沿うとは限らない。
目下の律を見舞う四面楚歌も、そこに列せられた一例に過ぎないのだ。

「いやいや。普通に考えて、変だって。
普通、デートなんて友達に見せるものじゃないよ」

 律は常識を盾として、彼女達の要求に抗っていた。
だが、便乗した二人はともかく、発端の唯は始めから理不尽な強請りだと分かっている。
からかう事が目的なのだから、正論で構えても引き下がらせる効果は期待できない。

「えー?りっちゃん、あんなに自慢してたじゃんかー。
自慢のダァ……プッ、を見せびらかす良いチャンスだよ?
それともまさか、嘘って事はないもんねー」

 唯が意地悪く煽る。
嘘である可能性に言及した辺り、追い込みの段階に入っているのだと察せられた。

 ここが正念場だと、澪は固唾を呑んで見守る。
もし律が唯の要求に従うのなら、自分の負けだ。

「嘘ならまだいいんですが……」

 語尾を濁していても、梓の言いたい事は察せられた。
自分達を心配させないが為、不幸な恋愛を隠そうとしている。
そう懸念しているのだろう。
14 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:54:33.79 ID:8onyAH8e0
「りっちゃん、嘘なんかじゃないわよね?
本当に居るもんね。見せて、安心させてあげましょうよ。
それに」

 紬が律を励ますように言った。その口は、まだ閉じていない。

「見返してあげないとね」

 続け様、紬は唯を一瞥して付け加える。
察するに、唯に反発を感じていたらしかった。
恋愛への興味を捨てきれないが、さりとて律をからかう唯も捨て置きたくない。
その二つの思いが胸裏で鬩ぎ合った結果。
律の逢瀬を見物するという結論で止揚したのだろう。

 三人が三様の感情を込めて、律へと迫る。
澪は無関心を装いながらも、律の言葉を待っていた。
律が応じれば敗北だ。否んでくれれば、嘘の可能性に縋る事ができる。

 嘲笑と心配と激励。源は異なっていても、律に向けられた要求は一つだ。
その単純な問いを受けた律の口が、開いた。
声が、唇の隙間から漏れ出て、澪の鼓膜に、届く。

「いいよ、いいじゃないの。見せてやろうじゃないの。
そんなに見たいなら、後学に供してあげる。
私達のデート、見せ付けてやるんだから」

 鼓膜を叩いた振動が増幅されて、澪の回路を伝動する。
脳に収める事のできなかった大きな衝撃は、
胸にまで突き抜けて澪の願いを無残に破壊した。

 居ない相手との逢瀬を見せる事はできない。
見せると宣言した以上、律には恋人が居るという事だ。
第一波を取り乱さず凌いだ澪に、その思考が追い討ちを掛ける。
受けた驚愕が大きかっただけに、論理による理解が後を追っていた。
15 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:55:48.79 ID:8onyAH8e0
「ええっ?ほんとにほんと?本当に、りっちゃん、彼氏居るの?
で、しかも見せてくれるの?楽しみー」

 唯の変わり身は早い。
律に彼氏など居ないと決め付け、からかった事を恥じ入りもせず、
律の逢瀬に期待を膨らませている。
澪は呆れる反面、唯の気持ちの切り替えの早さが羨ましくもあった。

「ほら御覧なさい、私の言った通りでしょう?
でも、私も楽しみよ。りっちゃん、勉強させてもらうわね」

「期待ばかりもしていられないですよ。
本当に律先輩に相応しいかどうか、見極めなきゃいけないんですから」

 紬の声は緩んでいたが、追う梓の声には気負いが篭っている。
梓の言う通りだ。落胆ばかりもしていられない。
律に値する人間か否か、律の恋人を見定めなければならない。

 分かっている、なのに──。
それが自分の最後の役目だと言い聞かせても、気力が湧いてこない。

「あっ。言っとくけど、邪魔は駄目だからな。
見せるって言っても紹介とかしないし、陰に隠れて遠くから見てるんだぞ。
それが条件だもん」

 澪が黙っている間に、律は話を進めていた。
提示された条件に、唯が真っ先に胸を反らして開口する。

「勿論だよ、分かってる分かってる。
りっちゃんの邪魔なんて、野暮な事しないよ」

「唯が一番心配なのっ。
不自然っていうか不審なんだから、ダァに見付からないようにしてろよ。
知り合いだと思われたくないし」
16 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:57:10.62 ID:8onyAH8e0
「酷いー、りっちゃんが私をお荷物にするー。あんなに仲良かったのにー。
あずにゃんや、りっちゃんは男が出来て変わったねぇ。
友情よりも男なのかねえ」

 律に要注意を宣された唯が、芝居掛かった声音で戯けた。

「もうっ、ふざけないで下さい。
でも、同性の交友関係にまで口出しするような人なんですか?」

 梓が眉を顰めて問う。

「違うっての。たださ、まだ皆に紹介とかは早いと思うし。
だから、観察されてる所を見付かると、言い訳が利かないんだよねー。
大体皆、見た目は、いいからなー。心移りされたくないし」

 律こそ”見た目は”佳い。
だが、過度に我儘で極度に依存症な彼女の内面を、
自分以外に包容できる人間が居るとは思っていなかった。
否、今も思っていない。
──だから別れろ今すぐに。

「見た目は、って何ですか。何でそこ、強調するんですか」

 梓は怒ったような顔をしているが、見目をそやされて悪い気はしていないのだろう。
澪とは対照的な垂れ気味の目元が緩んでいる。

「その見た目にしても、りっちゃんより上なんて存し得ないと思うの。
でも、お邪魔はしないから安心してね。
見つからないように、彼とのデートを眺めてるから。
あ、そうだ、まだ伺っていないんだったかしら。その人のお名前は?」

 前置きした言葉に遠慮の心を代弁させて、紬が問う。
恋愛の話に最も目を輝かせていた彼女の事だ、
本心では万に渡る質問を向けたいに違いない。

「え?名前?名前はー」
17 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:58:33.37 ID:8onyAH8e0
 焦らすように、律は間を置いた。
「勿体ぶるな」と怒鳴りたくなるが、澪は堪える。

「さんぅ゛だよ」

 苛立っていたせいか、澪には律の返答の一部が不明瞭に聞こえていた。
う段の濁音だと当たりが付いたものの、意味する一語に辿り着けない。
だが、言い直すように求めて、関心があるように思われる事も癪だった。

「サンジュ?」

 唯も聞き取り辛かったらしく、図らずも訊き返してくれていた。
聞く側の問題ではなく、律の発音からして不明瞭だったのかもしれない。

「違うよ、サングだよ、サング。
漢数字の三に旧字の玖を書いて、三玖」

 今度は聞き取れたが、姓名のどちらかまでは分からない。

「へー。変わった名前だねぇ。
で、そのサング君とのデートなんだけど、私達は何処に何時頃に行ったらいいの?」

 唯は呼び名が付いただけで満足したらしく、具体的な計画へと話を進めている。
唯はより興味を惹く対象がある限り、些事には頓着しない。
それは集中力を一方向に傾けられる長所である反面、注意が散漫という短所でもあった。

「まだデートの行き先さえ決めてないよ。香港行けたらなー、とは思うけど。
絶佳の夜景を眼下に、ダァと恥ずかしい事しちゃったりとか。おかしぃし、りーっ」

 律は願望を並べた挙句、勝手に恥じ入って顔を真っ赤に染め上げてしまった。
いつもなら愛でられる律の仕草も、今となっては癇に障る。
律を茹でている者が、自分ではないからかもしれない。
18 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:59:40.80 ID:8onyAH8e0
「りっちゃん、乙女ねー」

 上気した頬に手を添えて、紬が呟く。

「で、現実は?」

 対して、梓は容赦がない。
ロマンチシズムには目も呉れず、プラグマティックに有用な情報だけを求めていた。

「ん、国内のそんなに遠くない所だと思うよ。ダァに決めてもらうんだ。
でも、映画みたいなデートにはしたいな。誕生日なんだし」

 現実的な答えを返しつつも、恍惚の念が抜け切った訳ではないらしい。
映画を模したいという望みに、理想への未練が透けていた。

「じゃあ、りっちゃん。こうしよう。プランが決まったら、私達に連絡頂戴ね。
私達も二十一日は空けておくから。それでいいよね?」

 惚気るばかりの律に痺れを切らしたのか、唯が音頭を取って提案した。
唯は遊ぶ段になると手際がいい。
マイクパフォーマンスにも活かして欲しいと、澪は度々思ってきている。

「うん、それがいいと思う。詳細が決まり次第、改めて連絡するね」

 律は素直に頷いた。
紬と梓も唯々諾々と頭を縦に降っている。
提案への応否を確認する唯の視線が、その三人の頭上を当然のように通過して──
一人、追従の動作を取らなかった澪の前で止まる。

「澪ちゃんも来るよね?」
19 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 22:00:48.13 ID:8onyAH8e0
「澪は来ないよ」

 澪が口を開くよりも早く、律が唯に答えた。

「澪、私なんかに関心ないもん」

 無関心な澪に拗ねているような口振りで、律が付け足した。
澪は律のこういった態度に、今まで幾度も遭遇してきている。
そしてその度、自分に気がある素振りだと解してきた。
だが、他に彼氏が居る以上、単なる我儘でしかなかったらしい。
律は興味のない相手からでさえ、常に注目されていないと気が済まないのだ。
度を越した主我の強さに、腸が溶鉱炉の如く煮え滾る。

「ああ。律のデートなんかに関心はないな。
その日は、家でロメロゾンビでも観賞しているよ。
よっぽど有意義だ」

 澪は誰とも目を合わさずに吐き捨てる。
逢瀬への同行に気乗りしなかった事は確かだが、
律への怒りが澪の態度をより硬化させていた。
裸に剥いた律を磔刑に処し、遍く衆人に公開してやりたい。

「澪先輩?何かあったんですか?」

 梓が不審そうに訊ねてきた。
目敏い彼女は、澪の放った棘のある言葉を見逃してはくれない。

「別に、何もないよ」

 努めて穏やかに澪は返す。笑みも添えてやった。梓に罪はないのだから。

「そうですか」

 納得した訳ではないだろうが、梓は引いてくれた。
澪が律を突き放す事など、茶飯事ではないが初めてでもない。
不審は買っても追及まではされない、その程度には些事でもあった。
20 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 22:02:02.75 ID:8onyAH8e0
「じゃあ、話も付いた事だし。そろそろ練習しようか」

 気持ちを切り替えようと、澪は立ち上がった。
先程、澪が同行に同調しなかった仕返しではないだろうが、誰も倣おうとはしない。

「えー。今日はもう、帰ろうよー。
いっぱいお話して、衝撃的な事実を聞いちゃったから、疲れちゃったよ」

「インパクト、大きかったですものね」

 怠惰な唯が口を尖らせただけではなく、勤勉な梓までも帰宅に与する声を上げていた。
確かに、澪も気疲れしている。

 加えて。律へと棘のある声音を向けた直後だけに、周囲と態度を違える事は憚られた。
立て続けば、不審は追及に至る。

「しょうがないな」

 澪も周囲に合わせ、ティーカップを手にシンクへと向かった。

*

21 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 22:03:36.50 ID:8onyAH8e0
>>2-20
 本日はここまでです。
また明日、よろしくお願い致します。
22 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage]:2016/08/07(日) 17:33:58.27 ID:CcCrXnESO
期待
23 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/07(日) 21:14:08.71 ID:KqyK4dU00
こんばんは。
>>20の続きを投下します。
24 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:15:12.92 ID:KqyK4dU00

*

2章

 澪は唯達とは横断歩道で別れた。
紬は先に駅で見送っている。
ここから先は、律と二人きりだった。

 先程とは打って変わって、律は黙りこくって歩いている。
皆で歩く帰路の途中、唯に囃されて喧しく応じていた姿はもうなかった。

 澪も倣って、律に話し掛ける事はしなかった。
聞きたい事なら山ほどある。
だが、自分から話し掛ける事は、焦らし合いに負けるようで嫌だった。
澪は律の方を見ようともせず、手に携えた白いバラばかりに焦点を置いて歩く。
反面で、律の傍を離れて一人で帰る事もできなかった。

 無言のままで帰路の道程を消化し、家が近付いてきた。
この気詰まりする関係を、明日の部活に持ち越したくはない。
意地など張らずに譲歩して、何か話し掛けるべきだろうか。

「ねえ」

 言葉を探していた澪に、律が話し掛けてきた。
視線を向けると、弱気な表情を浮かべた律が映る。
いつも澪の譲歩を引き出してきた、見捨てる事のできない顔だ。

「今からうち、来てくれない?
どうしても澪にしておきたい話があって」

「ああ。このまま行くよ」

 律に対する怒りが収まった訳ではないが、突き放せぬままに澪は諾した。
加えて。何時になく真剣な表情の律が言う、話の内容も気になっている。
深刻な問題を抱えていなければいいが、と思わずには居られなかった。
.
25 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:16:07.07 ID:KqyK4dU00
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 澪を部屋に招じ入れた律の瞳が潤んでいる。
深刻な話なのだろうか。梓の危惧した通り、サングとの関係は不幸な恋愛なのかもしれない。

 澪は身構えながら問い掛ける。

「で。話ってのは、何なんだ?」

「実は……みーおー」

 律は澪の名を叫びながら、飛び付いてきた。
澪は小さなその身体を受け止め、髪を撫でてやる。
彼女の一部に触れた指を優しく動かすだけで、落ち着きを取り戻していく律が愛おしい。
自分が守ってやらなければならないと、澪の使命感を改めて呼び起こす反応だ。

「何があったんだ?もう怖がる必要はないから、言ってごらん?
サングとか言う野郎に、何か不本意な事でもされているのか?」

 律を安心させるよう努めて穏やかな声で、それでもサングに対する怒りを隠す事なく。
澪は律を促した。

 澪に導かれ、律は意を決したようだった。
埋めていた顔を上げ、口を開く。

「実はね。その話なんだけど……私の嘘なの。
彼氏なんて、本当は私、居ないの」

「えっ?」
26 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:17:17.86 ID:KqyK4dU00
 澪は自身の耳を疑い、次に自分の正気を疑った。
律を独占したい欲心が産んだ、幻聴だろうか。
現実の律の声ではなく、願望の律の言葉を聞いたのではないか。

 胸を引く小さな力が、澪を正気に引き留める。
律が澪の胸部を引っ張ったのだ。
まだ聞いて欲しい話があると、非力な律が健気にも澪の関心を引いている。
澪は確かに現実の律の声を聴いていたと、その小さな動作が証していた。

「居ないのに、居るって言っちゃって。
どうしよう。デートなんて、見せられないのに」

 律はそれ以上を口にせず、涙ぐんだ瞳で澪を見上げてきた。
察して欲しいと、甘えている。

 後を引き取って、澪は言う。

「じゃあ、何で約束なんてしちゃったんだよ。
唯もムギも、楽しみにしていたぞ。
梓なんて、本当に心配ちゃってたし」

 安堵が声に出ぬよう、澪は詰責の体で言葉を紡いだ。
嘘との報に胸を撫で下ろした反面、律に踊らされた憤りもある。
心労を費やさせた虚言に、全面的な擁護の姿勢で臨みたくはなかった。

「だって。唯が意地悪ばっかり言うんだもん。
サイズも信じてくれないし。
それで意地張っちゃって、後に引けなくなってって。りー」

 律は尖らせた口で言い募ると、頬を膨らませて唸った。

 一つの嘘を取り繕う為には、更に多くの嘘を要する。
そうして気付いた時には、雪だるまのように膨らんでしまっているものだ。
律も虚言を通そうと詐言で膨らませた結果、
吐いた本人のコントロールを離れてしまったらしい。
27 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:18:28.16 ID:KqyK4dU00
「どうだか。本当は居るんじゃないのか?
今更怖気付いてないで、見せてやれよ」

 事情は呑み込めたが、ここでも澪は突き放した。
嘘であっても、恋人が居るなどと口走った罪は重い。
自分への恋情を隠している事と併せれば、許し難いものだ。
律が潔白を証さずして、澪も安易に協力などできない。

「居ないっ、私、本当に彼氏なんて居ないのっ。
澪まで私の事、虐めないでよ」

 涙交じりに喚く律の必死な姿を、澪は冷めた目で遇してやった。
煽る意図を零下の視線に隠している。
自分に信じてもらう為、狂乱の醜態を晒す事さえ厭わない律が愛おしい。
貪欲にそして冷酷に、澪は律から必要とされる実感を欲していた。

「やだ、やだ、やだっ。みーおー、どうして?どうして?どうして?
どうしてそんな意地悪するの?見捨てないでよ、みーおー。
そうだっ。携帯っ、メールの受信フォルダ見てよ。
通話ログもアプリの履歴もLINEのログも」

 律はスマートフォンを差し出してきたが、澪は受け取らなかった。
必要ない。もう充分、否──やり過ぎだ。

 代わりに澪は、涙に濡れた律の頬をハンカチで拭ってやった。
目元も軽く抑えてハンカチに吸水し、霞んだ視界に自分の姿を取り戻させてやる。
明瞭となった律の瞳に映す顔は、穏やかな微笑だ。

「ごめんな。律の言う事を信じてるから、泣かないで。
それに私、初めから分かってたんだ。律に男なんて居ないって事」

 優しく言ってやると、律も安心したらしくスマートフォンを引っ込めた。
澪も倣ってハンカチを仕舞うと、空いた手で律の髪を撫でてやる。
28 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:19:34.30 ID:KqyK4dU00
 本当は、分かってなどいなかった。
事実、部活中は律の恋人の有無を判じかねて、苦しい時を過ごしている。
その鬱憤も相俟って律に意地悪く当たったのだが、度を越していたと澪は自省していた。

 どうせ律を見捨てられないのなら。
自分の怒りなど度外視して、始めからこう言ってやれば良かったのだ。

「明日、一緒に梓達に謝ってあげるから。
それで、デートの話は無かった事にしてもらおうな。
もし唯が笑ったりしたら、私が怒ってあげるから」

 用意していた言葉を、そして恐らくは律が最も欲しているであろう言葉を、
澪は告げてやった。
律が安堵し歓喜する顔を、脳裏に浮かべながら。

 だが、眼前の律の表情は、予想と異なっていた。
満足していないように、首を振っている。

「どうした?律。私と一緒に謝るのは嫌なのか?」

 心外な律の態度に戸惑いながら、澪は問い掛ける。
一人で決着を付ける積もりなのだろうか。
律にその度胸がない事くらい、澪は知悉している。
現に、嘘だと言い出せないからこそ、ここまで話が大きくなってしまったのだ。

「違うの。唯達に、嘘だってバレちゃうのは嫌なの。
馬鹿にされるに決まってるもん」

 律は唯の態度に怒り心頭らしく、すっかり臍を曲げていた。
29 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:20:35.01 ID:KqyK4dU00
「おいおい。かと言って、このまま誤魔化せはしないぞ?
それとも、今からデートを見せない方向に持って行くつもりか?」

 それが難しい事くらい、発言した澪自身も分かっている。
紬は兎も角、心配する梓を納得させる事は骨が折れそうだった。
唯も律の恋人の不在を再び疑い出すかもしれない。
素直に虚言だと認めて謝ってしまう事が、最上の策なのだ。

「んーん。デートだって見せるよ」

「どうするんだよ。だって、男なんて居ないんだろう?
見せようがないじゃないか」

 不安に駆られながら、澪は言う。
嘘を本当にしてしまわないか、心配だった。
今からでも恋人を作ってしまえば、誕生日のデートに間に合わせる事ができる。
それだけは、何としても阻止しなければならない。

 その時、律の指が動いた。
拳の中で人差し指だけが立って、澪を向く。

「りっ」

 澪を指し示すと同時に、律が短く鳴いた。
澪の心臓が跳ね上がり、胸板を内側から激しく叩く。
間違いなく律は、自分を指名している。

 告白、なのだろうか。
追い詰められての事とはいえ、遂に告白する勇気を律が持ったのだろうか。
澪は確認の意を込めて、自分を指差しながら言う。

「私?」

 肯んずるのか、逃げるのか。
緊張を体の中に抱え込んで、返答を待つ。
30 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:21:40.24 ID:KqyK4dU00
「そう、みぃお。お願ーい、みーおー。男装して、私の彼氏の役やってよー」

 素早く答えた律の言葉は、澪の期待を瞬時に剥落させた。
脱力と落胆に苛まれながら、澪は律を見遣る。

「何言ってるんだよ」

 緊張の反動は大きく、返す澪の声調を無愛想に染めていた。

「だって、そうするしかないじゃん。他に頼める人居ないんだから。
澪って丁度、その日、私のデートを見に来ない話になってるし」

 丁度、などと偶然であるかのように律は表現しているが、
澪が見に来ないと初めに宣した者は紛れもなく律だった。
思えば、律はこの策を実行する為に、澪を唯達との同行から遠ざけたのかもしれない。

「策士だな。でも、バレると思うぞ」

 生半可な変装で、唯達の目を誤魔化せるとは思えない。
それだけの日々を、彼女達とも過ごしている。

「大丈夫だよ。長髪で胸板の厚い彼氏、って事にしておくから」

 律は甘い見通しを述べているが、決して楽天家ではない。
澪ならどのような無理難題でも叶えてくれる、という信頼の表れなのだ。
否、信頼の表れと繕うよりも、過度の依存の結果だと換言した方が正鵠を射る。

「乳房まで筋肉で出来てる訳じゃないんだぞ」

 澪は呆れながら言う。固い筋組織で構成されているのではなく、柔らかい脂肪だ。
だが、柔らかいからこそ、コルセットで締められる。その外観は筋肉に似るだろうか。
31 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:22:41.84 ID:KqyK4dU00
 気付けば、律の望みを叶える方向で考えていた。
澪は流されそうな自分を取り戻すべく、自論を述べ直す。

「正直に謝った方がいいと思うよ。さっきも言ったけど、私も一緒に謝るからさ。
梓は安心するだろうし、ムギだって許してくれるよ。
唯が笑うようなら、きつーく叱り付けてやるし」

「嫌っ」

 澪が全面的に助勢すると宣しても、律は強情な姿勢を崩さなかった。

「何で、そんなに意地を張るんだ?
元はと言えば、嘘を吐いたのはお前の方なんだぞ?」

 唯に誘導されていった以上、全面的に律を責める気にはなれない。
それでも結果として、律が嘘を吐いた事実は存するのだ。
責任は取らねばならないだろう。

「だって。ムギの言う通り、失礼な唯を見返してやりたいもん」

 律が眦を決して言う。
唯に対する憤りの念は、澪にも共感できた。
調子に乗る唯を看過して、剰え勢い付かせてしまった責も感じている。
律がそこまで言うのなら、意思だけでなく行動も同じくして良いかもしれない。
何より、偽装とは言え律と同伴できるのだ。
考えてみれば悪くはない。
32 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:24:01.94 ID:KqyK4dU00
 いや。考えて、澪は気付いた。
仮に成功した所で、その結果は軽視できないものになる。
澪にとって、致命的な不都合が生じてしまうのだ。
否んでしまおうと、自身の心が呟いた時。
別の声が、鼓膜を叩いた。

「ぐすっ、みーおー、お願いだよー。
こんな我儘な事頼めるの、みぃおだけなの。助けてよ、みーおー」

 瞳の端に涙を溜めた律が、澪の名を連呼して嘆願していた。
振り切る事など、出来やしない。
ましてや、意地の悪い問いを放って虐めてしまった負い目もある。
詫びも兼ねて、律の我儘は極力叶えてやりたい。
致死に等しい不都合を承知で、澪は言う。

「分かったよ。当日はお前の男を装って、エスコートするよ」

 律の表情が翻った。

「ほんとっ?みぃお、引き受けてくれるの?
わっ。みぃおが男装するなら、すっごいイケメンになれるよ。
ふふーん、唯を見返して、羨ましがらせてやるんだから」

 顔を嬉笑に綻ばせた律が、悦喜の言を連ねて舞う。
泣き顔から一転した燥ぎように、澪は苦笑せざるを得ない。

「浮かれるのもいいが、バレないように気を付けろよ。
デートする時の私は澪じゃなくて、サングだからな?」

「分かってるよ。みぃおの方こそ、バレないように気を付けてよ?
髪とか胸とかの、男子にしては不自然な容姿は、
予め私の方で言い繕っておくけど」

 律は乗り切れる目算を立てているようだが、
澪には露見の可能性を軽視しているように思えてならない。
楽観は禁物である。入念に準備を整える必要があるのだ。
33 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:25:14.83 ID:KqyK4dU00
「律の狙いは分かるよ。
不利な事は先回りして言っておく事で、言い訳が利くように仕向けたいんだろ?
でも、言を弄して策する段階で襤褸が出たら、元も子もないぞ。
彼氏の容姿には言及しない方がいい。梓が言った事、忘れたのか?」

「梓?私が心配みたいで、色々言ってたけど」

 律は梓の放ったどの言葉を澪が指しているのか、判じかねているようだった。

「私みたいな人を想像した、とか言っていただろ?
それは軽口だったんだろうけど、連想する種はあるんだ。
下手に私に近い外見を上げてしまうと、軽口が疑いに育ちかねない。
分かるな?」

 梓が言い放った直後、当の律が否定した発言だ。
躍起になった激しい応酬は、今でも鮮明に思い出せる。

「そっか。策の段階で下手を踏んだら、余計に危なくなるもんね。
その場で詰問されるにしても、疑いの目でデートの見物に臨まれるにしても。
分かったよ。自分からは言わないし、もし唯達から彼氏の外見に質問されても、
当日のお楽しみ、って答えておくね」

 律は納得したらしく、澪の論を咀嚼の後に嚥下していた。

「その当日にしても、過度の心配はするな。幾らでも誤魔化せる。
髪形を変えるだけでも、印象は随分と変わるからな」

 澪はそこまで言うと、笑みを浮かべて付け加える。

「前髪を下ろしたお前みたいにな」
34 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:26:07.88 ID:KqyK4dU00
「もうっ。澪だって髪を結んだら、別人みたいになるくせに。
大体、気を付けるのは髪だけじゃないんだからねっ。その大きな胸を抑える事を考えてよ」

 拗ねたように噛み付いてくる律の頬が、仄かな恥じらいの色に染まっている。
律が髪を女の命と見立てている事は、
友人として過ごしてきた時間の中で澪も気付いていた。
それだけに、髪が関わると律は繊細な反応を見せる。
今も証した通りだ。

「分かってる、これだって抜からないよ。
律も当日、襤褸を出すなよ」

「澪の方こそ、当日はロサ・ブランコを手に持ったりしないでよ?
白いバラを持ち歩いているのなんて澪くらいなんだし、澪だってバレちゃうからね」

──ロサ・ブランコ

 バラの種名である。
普段から携えているほど、澪はこの白い薔薇を気に入っていた。
強靭かつ高貴で気高い特性が、花弁の美しさと相俟って澪を惚れ込ませている。

 非常に硬い茎に有した鋭利な棘は、ダンボールさえも容易に貫いてしまう。
柔肌で棘に触れようものなら、一溜まりもなく皮膚を切り裂いて流血に至る。
花弁も強靭であり、生半可に力を加えても形が崩れる事はない。
花弁の白色は多色に馴染み易く、浸す染料の色を忠実に映す。

 そして花言葉は『道無き道』。
鋭い棘々の屹立する険しき茎を登れる者だけが、美しく香り高い花弁に辿り着ける。
転じて、掲げたる高き目標に向かい、
困難でも怯まずに立ち向かって行く勇士を称揚するモチーフとしても名高い種だった。
35 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:27:03.03 ID:KqyK4dU00
「言われるまでもないよ。サングの正体が私だと簡単に看破されちゃう材料からな。
大丈夫、私は上手く演じ切ってみせる。
だから律はいつも通りに私を信じていればいい」

 律が恥じらいの冷めやらぬ顔色で頷く。
それでも、澪に協力を嘆願していた時に比べれば、落ち着いて見えた。
交渉は律の望む形で妥結したのだ、その安堵が影響しているに違いない。

 意地を張っている点も、勇気がない点も自分達は同じかもしれない。
そのシンパシーもまた、澪が律の提案に乗る一つの動機となっている。
だが、澪に生じた深刻な不都合を、律は共有していないらしい。
自分達二人に関わる事だというのに、だ。
目先の危機を乗り切る事に腐心するあまり、そこまで頭が回っていないのだろう。

 律は急迫する問題に目途を付けて、一息吐いている。
その眼前に立つ澪は、新たに生じる問題と併せて準備に付いて思考していた。
即ち、律の恋人を装う準備の事だ。

*

36 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:29:00.08 ID:KqyK4dU00

*

3章

 夏休みも終わりに近づき、律の誕生日も明日に迫っている。
澪の準備も後一つを残すのみだった。
それを終わらせる為に、今日もファッション街へと足を運んだのだ。

 澪の労など露知らず、今日の部活でも唯達は律を囃し立てていた。
律が逢瀬を見せると宣して以来、その有様で彼女達は部活を過ごしてきている。
当の律も澪の援けを取り付けて気が大きくなったのか、
調子に乗った態度で唯達と接していた。
特に三日前の事は目に余り、目の裏に焼き付いてしまっている。
.

.
 律が見せびらかしてきた手帳には、予定が一切書き込まれていなかった。
月別カレンダーの日付の下に、丸印とハートマークが記されているのみである。
春から始めて今月までのページを捲った後で、唯が口を開いた。

「何これ?ハートマークがデートの日なの?」

 唯の言った通りの意味で律は記号を書いたのだろうと、澪も思った。
その律の本意は、恋人が居るよう装う為に違いない。

 それにしては、稚拙な工作だと思わざると得なかった。
丸印にせよハートマークにせよ、連続してしまっている。
また、平日にも遠慮なく書き込まれ、学校や部活、
そして自分達と遊んだ日々とも重なっていた。
幾ら架空の予定だとは言っても、
以前の自分の話と整合性を持たせようとはしなかったのだろうか。
これでは、逆効果だ。
37 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:30:13.01 ID:KqyK4dU00
「そんなに連日、デートしていたんですか?
平日とか、やっぱり夜だったんじゃないですか」

 梓がその矛盾を見逃すはずもなく、口を尖らせて律に噛み付いた。
だが、律に慌てる様子は見えない。

「違うっての。これはサングとのデートを記した方の手帳じゃないよ。
私の身体の管理を記した手帳だよ」

 一同の瞳が、律に向いた。
その視線を一身に受けて、律が得意気に説明する。

「丸印が安全日なんだ。そして、ハートマークがねー」

 律はそこで自分の身体を掻き抱くと、両目を強く閉じて甲高い声で叫んだ。

「危険日っ。りぃーっ」

 身体を悶えさせて一人で興奮している律に、澪は呆れる外なかった。
見れば律の誕生日の日付にも、一際目立つ形でハートマークが記されている。
桃色の波線に囲まれたそれは、周囲に小さなハートマークまで靡かせていた。
.
38 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:31:35.29 ID:KqyK4dU00
.
 思い出すだけで口元へと込み上げて来る溜息を、澪は吐かずに堪える。
確かに、律は調子に乗ってこそいた。
だが、澪の言い付け通り、サングの容姿を唯達に教えてはいない。
加えて、自分と打ち合わせた事も、唯達との間で合意に至らせている。
そこは評価すべきだろう。

 上手に唯達を騙す為には、彼女達の動きを制御下に置かなければならない。
律に場所や時間といった当日の逢瀬の予定を話させるとともに、
唯達が観察する時間や取るべき距離まで言い含めさせた。

 その中に、唯達は逢瀬を始めから見るのではなく、
途中から見るという合意も含まれている。
内幕の露見を避ける為には、暗くなってから短時間だけ見せた方が都合はいい。
サングに見つからないよう最高潮の場面だけ見せる、というのが口実だ。
その為、場所は横浜のみなとみらい、時間は夕方を指定させている。

 今度こそ、澪は溜息を堪えられなかった。
致死的な不都合を負ってまで、計画を事細かに練る自分が滑稽に思えてならない。
そう、この芝居の結果、律と恋仲になるという希望は潰えてしまうのだ。

 そう、律は既に恋人が居るという事を、唯達に証明する事となる。
律の恋人の席は架空の男で埋められ、澪が座を占める余地はなくなってしまう。
律はこの事に気付いていないのか、或いは澪と交際する希望を諦めてしまっているのか。
何れにせよ、澪は望まぬ結末に至ると知っていながら、律の詐称に手を貸す事となった。
39 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:32:47.35 ID:KqyK4dU00
 こうなる前に、自分から告白してしまえば良かった。
この三週間近い日々、その後悔に苛まれなかったとは言うまい。
だが、それでは上手くいかないと見越したからこそ、見送ってきたのだ。
臆病な律では澪に告白されてなお、幸福からさえ逃げた事だろう。
律の殻を破る為には、澪に惚れていると自認させなければならない。
その上で、偕老同穴の道程で生じる全てのリスクを、
澪と共に背負うと覚悟させる必要があった。
律に告白させるという或る種の荒療治は、どうしても避けられない。

 だが、澪はまだ諦めてはいなかった。
律が唯達に本当の事を話して自分への告白に踏み切る、そのシナリオを捨てていない。
律に今まで持った事のない勇気を強いる策が、澪の頭部にはあった。
否、策ではない。賭けだ。

 けれども、賭ける価値ならある。義務もあった。
律が勇気を持てるまで、待つ身に甘んじてきた自分にも責任があるのだから。
だからこそ、此処に来た。これが、最後の準備である。
そして最後の準備はデートの前日でなければならなかった。
明日になるまで、唯達に見せられないのだから。

「Our Splendid Songs」

 私達の勇気の歌を。
長く美しい自慢の黒髪を靡かせ、澪は律を手に入れる為の一歩を踏み出した。
『ハーゲンタフ』と描かれた看板が目立つ店、ここに用がある。
その扉を潜り、律の勇気にベッドした。

 律を手に入れる為ならば、女の命さえ惜しくはない。

*

40 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:36:50.06 ID:KqyK4dU00
>>24-39
 本日はここまでです。
余談ですが、サングという偽名は澪が「さんかれあ」に少し似ていたので、サンゲリアより拝借しました。
ハーゲンタフはバタリアンです。

 また明日よろしくお願いします。
41 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:36:14.88 ID:F8PqAWbf0
こんばんは。>>39の続きを投下します。
42 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:36:59.14 ID:F8PqAWbf0

*

4章

 律の乗る電車は、横浜駅からみなとみらい線に直通した。
そして律は、みなとみらい駅を電車に乗ったまま通過する。
夜になれば、唯達はこの駅で降りるのだろう。
まだ午後になったばかりの今、律の目的地は此処ではなかった。

 終点の元町・中華街駅で降りた律は、長い地下道を一人で歩く。
澪と待ち合わせている場所は、中華街東門を正面に据えた出口だった。
恋慕の情が細い足を急かすが、期待は禁物だと自分の胸に言い聞かせる。
これは、偽装の逢瀬でしかないのだ。少なくとも、澪にとっては。

 事実、この時間帯に律が此処に来た理由も、
唯達を騙す為の打ち合わせと練習を兼ねたものだ。
夜の時間帯に見せる逢引で、唯達を騙し切らなければならない。
当日の打ち合わせや練習は不可欠だと、澪に言われていた。

 本当のデートなら良かったのに。と、家を出てから何度も胸中で呟いている。
だが、演出された偽りの逢瀬であれ、
恋情を抱く相手と恋人のように振る舞える好機には違いない。
律は無理矢理に自分を奮い起こすと、地上へと出た。

 律の瞳に、入口となる中華街の壮麗な東門が映る。
前途の多難を示すような曇天が恨めしかったが、眼前の門は太陽光などには頼っていない。
薄い光の中でさえ、雅の凝らされた装飾が輝いて律を迎えていた。
仮の装飾でしかない澪との逢引も、この街でなら優雅に映えるかもしれない。
禁物だと分かっていながらも、希望を抱かずにはいられなかった。

「律。ここからはエスコートするよ。今日の私は彼氏らしいからな」

 門に向かって歩こうとした律の足を、聞き覚えのある声が止めた。
一瞬のうちに、律の胸が興奮で沸騰する。
飼い主を見つけた子犬のようだと自覚しながらも、勢いよく振り向く首を止められない。
43 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:38:09.35 ID:F8PqAWbf0
「澪っ……っ?」

 だが、振り向いた先の人物を見て、律は絶句してしまった。
澪であるはずなのだが、律の記憶にある彼女の容姿と一致しない。
勿論、変装して来る事は分かっていた。
それを織り込んでいても、俄かには信じ難い。
この目に映している者は、秋山澪なのだろうか。

「こら、律。彼氏の名前を間違えるなよ。サング、だろ?」

 律の内心の問いに呼応したかのように、澪が間違いを正してきた。
その通りではある。そうであるように、変装して来たのだから。

 化粧だけ見ても、随分と印象は変わっている。
だが澪が見せた変貌は、そういった可逆的な装いに留まっていない。
それだけならば違いに驚く事はあっても、律とてここまでの動揺はしなかっただろう。

 律は息を急き切らせ、何とか言葉を紡ぐ。

「そうなんだけど。えっとぉ……どうしたの、その、髪」

 昨日見た時は、澪の美しい黒髪は腰に届く程の長さを誇っていたはずだ。
なのに、眼前の澪の黒い髪は、輪郭の縁を覆う程度の長さにカットされている。
もみあげは顎の下にこそ突き出ているが、首の付け根には達していない。
後頭部の髪も項が覗ける長さだった。

「どうしたって、髪形を変えるって言っただろ?」

 澪は周知した事だと言わないばかりの、当然のような口振りだった。
失った髪に対して、執心を片鱗さえも見せていない。

 確かに律は、澪が変装の為に髪形を変えると聞いていた。
ただ、大胆な散髪まで伴う処置になるとは思ってもいなかった。
元の長さには手を加えず、
あくまで髪の纏め方を変える程度に留まるのだろうと認識していた。
命と同視し得る大切な髪を、一時を凌ぐ為だけに切るなど律には発想もできない。
44 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:39:30.34 ID:F8PqAWbf0
 当の澪が無頓着な様子を見せているのに対し、律の方が未練を感じていた。
律も見惚れていた立派な黒髪が、恋しくて惜しくて切ない。

「何で、そこまでするの?」

 自然と、問う声にも惜しげが込もる。

「この方が、私だって事がバレないからな。
だから昨日、最後の準備に切ったんだ。
唯達と鉢合わせしないように、いつもの所じゃなくって、ちょっと遠出してな。
サロン『ハーゲンタフ』って、ファッション雑誌とかで見たあるだろ?
そこ使ってみたんだ」

 やはり澪は、何でもない事のように言った。
切る前にも葛藤なく、些事を処理する調子で決断したのだろうか。
もしかしたら、その決断も早い段階で下されていたのかもしれない。
律が澪に偽装の恋人役を頼んだ、その日の内に。

 律は澪から、サングの容姿を唯達に伝えるなと言い付けられていた。
あれはこの為の指示だったのだと、今となっては律にも推せる。

「変か?」

 澪の目には考え込んでいる律の姿が、似合わないと言いたげに映ったのかもしれない。
今日の装いの評価を訊ねてきていた。
45 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:40:39.42 ID:F8PqAWbf0
「んーん」

 反射的に答えてから、律は改めて澪を眺めた。
髪が短くなった事で、澪の端正な顔立ちが前面に出てきている。
毛先にジャギーが入っている為に、ボブのような緩さはない。
逆に、剣の切っ先を長短交えたように、毛の束が鋭く連なっている。
初見では戸惑いが大きく熟視する余裕もなかったが、
落ち着いた今なら確信を持って言える。
澪に似合う、鋭利な印象を際立たせる髪形だ、と。

 顔にも見惚れてしまう。
化粧とはいっても、目元以外は大して手を付けていない。
心持ち、普段より白く見える程度だ。
勿論それだけでも、印象の変化に大きな寄与をしているのだろう。
だが、目元に走るアイシャドウは、別人と為り遂せる装いに決定的な役割を果たしていた。

 眼孔を覆う赤紫のアイシャドウの細いラインが、目尻を越えて引かれている。
醸し出されるエスニックな色気は、中華街の雰囲気に合っていた。
また、鋭い目付きと相俟って、妖艶でサディスティックな色香をも漂わせている。
澪の瞳から、別世界の色を流したようだった。

「カッコいいよ、似合ってるし。
それに、知人が見ても、パッと見じゃ気付かないよね」

 律でさえ、澪なのか俄かには判じかねた程なのだ。
他者が判別を付けるには、凝視が必要だろう。

「ああ。最初は、サングラスやマスクが必要かと思ったけどな。
でも、日焼けした梓や、すっぴんのさわ子先生の例もあるから。
それに、ごつい恰好した奴と歩くなんて、嫌だろ?」

 澪の言葉で、引かれた二つの例を思い出す。
部活の顧問である山中さわ子の時は、暗闇から急に灯が点った時だった。
明順応していない瞳孔も相俟って、
化粧をしていないさわ子が普段とは別人のように見えていた。
思わず「すっぴんのさわちゃん怖い」と言ってしまい、頬を抓られたものだ。
46 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:41:51.19 ID:F8PqAWbf0
 海で日焼けした梓の例は、更に顕著だった。
クラスメイトの平沢憂や鈴木純までもが、初見では誰だか分からなかったらしい。
そう妹の憂から聞いたと、部活のティータイムで唯が話していた。

 それらを思い出すまで、律もサングラスやマスクが必要だと思っていた。
比して、想起の早い澪は逢瀬の雰囲気を壊す事なく、洗練された対応で解決してくれている。

「嫌だなんて、無理なお願いした私に言えるのかな。
でも、マスクとかで変装されるより、今の方が素敵だよ。
それより、髪まで切っちゃって、本当に良かったの?」

 律は感じ入る反面、澪を巻き込んでしまった自責の念も胸に兆している。
澪の黒髪には、自慢に供しても恥じない美麗さがあった。
もし律が唯達と出来ない約束さえしなければ、今も美しく靡いていたに違いない。

 本当のスリーサイズを明かしたのに、嘘だと扱われた事が悔しかった。
この日の発端となった八月初旬の、あの日の出来事が律の胸に蘇る。

 意地悪く煽ってきた唯に立腹して、意地になって誇大な話を繰り広げた。
勿論、その後先を考えない反射的な対応が、此処に至った最大の原因ではある。
だが、律が自分の嘘に固執した理由は、それだけではない。
澪の反応が見たかったのだ。

 澪に恋情を抱いていた律は、澪が律の嘘に動揺してくれる事を望んでいた。
だが、律の期待に反して、澪は無関心な様子しか見せてくれない。
それでも恋人の話を続けたが、当の澪から冷淡な態度で遇されてしまった。
律も乙女心に応えようとしない澪に苛立ち、先鋭化させた発言を向けてしまっている。
そうして意固地になった律は、
到底果たせられない約束を唯達と交わす羽目に陥ってしまった。
47 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:43:05.49 ID:F8PqAWbf0
 追い込まれた律は澪に縋り付く以外、進路も退路もなくなっていた。
苛立って反発した相手に泣き付くなど、本来なら屈辱極まりない事である。
律とて澪以外ならば、意地でも助けを求めなかっただろう。
それが澪に対する、度を越した甘えであるとの自覚はある。
だが──

「ああ。前も言ったけど、そっちは髪を下ろしたお前に着想を得たんだよな。
ヒントをありがとな。
それと、恋人から似合っているって言って貰えて、きっとサングも冥利に尽きているよ」

 澪はこうして、律の我儘全てを許すかのように微笑んでいた。
だから律は自立心を堕す事になっても、澪に依存してしまう。
田井中律という一個の人権主体が壊されて猶、律は澪が好きだった。
恋人に、なりたかった。

 律はこの恋の勝算を、皆無と見立てている訳ではない。
澪の自分に対する態度を思い返せば、好意の表れではないかとさえ思えてくるのだ。

 だが、踏み切れない。勇気がなかった。
もし澪の態度に対する自分の読みが、勘違いだったら立ち直れない。
同性愛に対する唯達の目も怖かった。
先日は律の恐怖を裏付けるように、彼女達の異性愛に対する憧憬を見てしまっている。
澪との関係性が変わる事も、未知への不安があった。

 何より。
正式な恋人となると、甘えに正当性が付されてしまうのだ。
それは、澪に淫する依存の歯止めが、本当に無くなってしまう事を意味している。
その状態に至ってしまえば、もう自分自身の所有者を自らに留めては置けまい。
比喩ではなく、澪が所有者だ。
田井中律に属する権利の行使を全て、彼女に委ねる形となるのだから。
主体的な自意識を完全に放棄して、戻れなくなるほど壊れてしまう自分が怖かった。

「私だけじゃないって。誰に見せても似合うって言うよ。
きっと、唯達に見せても」

 自分を壊す決断に至れないまま、律は前言を他者の評価へと一般化して逃げた。
そうして自らの言葉で気付く。
澪の散髪は、今日を凌ぐだけの逃げ道しか提供していない事に。
48 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:44:16.89 ID:F8PqAWbf0
「あっ。そうだ、唯達だよ。今日は誤魔化せると思うよ?
でも、明日以降どうするの?」

 律は続け様に訊ねた。
明日も部活がある。
そこで髪の短くなった澪を見れば、今日の相手が彼女だったと唯達に気付かれてしまう。

「そのくらい、考えてから髪を切ってるよ。
明日以降を乗り切る策くらい考えた上での行動だから、心配するな」

 澪も当然、その程度の事には気付いていた。
策まで用意しているとは頼もしいが、具体的にはどう対処するつもりなのだろう。

「どうするつもりなの?」

「後で話すよ。それより今は、目の前の中華街に行こう。
おいで。本番のつもりでエスコートするよ」

 澪は空腹らしく、食事を優先していた。
律も食い下がる事なく、素直に従う。
もう髪が切られてしまっている以上、澪の見せる自信を信じる外ない。

 第一、美食の地を目前に置いて、垂涎の思いを留める事も憚られた。
今に至るまで、中華街の前に留まり話し込んでしまっている。
その間にも、大食の澪の胃は食欲で疼いていたに違いない。

「うんっ、そうだね。私も何か、胃に入れておきたいよ。
美味しい物、案内してよ。みぃ」

 澪の表情に気付き、律は言い直す。

「サングッ」

 澪は満足そうに頷くと、律を先導するように緩やかに歩き始めた。
肩紐で脇に垂らしている澪のボストンバッグが、歩みに沿って揺れる。
逢引に用いるよりも、小旅行で使うような大きなバッグだ。
バスドラムの幅を狭めて、奥行きを伸ばした形相が最も近いだろうか。
律は自分が部活で担当しているパートから、サイズに大凡の当りを付けた。
49 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:45:39.74 ID:F8PqAWbf0
 そのバッグが翻り、澪の全身も回った。
直後、中華街の東門を背に屹立する澪が、律の瞳に映る。
澪の普段着とは違うコーディネートも相俟って、別世界への案内人のようだった。
澪が夏に長袖を着ている姿など、サマージャケットであっても見た事はない。

 澪は白と黒のボーダーが入ったシャツの上に、
細く青いストライプが施されたジャケットを着用していた。
襟の巾が大きく、縁全体に白いラインが走っている。
そしてボトムはジャケットと同色のスラックスだった。
そのモッズスーツ風の服装の中、目元に走るアイシャドウがエスニックなインパクトを添えている。

「ようこそ。律がお姫様で居られる時間へ」

 確かに律は、別世界へと案内された。
導かれるままに、律は澪の手を取る。
或いは、サングの手を取った。

*

50 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:49:52.34 ID:F8PqAWbf0
>>42-49
 本日は以上です。
 投下していて気付きましたが>>44の8行目

誤 >サロン『ハーゲンタフ』って、ファッション雑誌とかで見たあるだろ?

正 >サロン『ハーゲンタフ』って、ファッション雑誌とかで見た事あるだろ?

でした。
推敲はした積もりでしたが、見落としがあったようでお詫びします。

 それではまた明日、よろしくお願いします。
51 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:21:07.95 ID:NAPwLUtio
 こんばんは。>>49の続きを投下します。
52 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:22:12.22 ID:NAPwLUtio

*

5章

 中華街の大通りに入って、すぐに澪は左に曲がった。
手を引かれるまま、律も従う。
上海路と呼ばれる道だと、澪が教えてくれた。

 大通りに比して、人の往来は少ない。
飲食店も大型の店舗が数軒構えているだけだった。
右手側は大通りと遜色のない綺麗で立派な店構えだが、熱気には欠けている。
左手側に至っては、工事中と思しき建物があった。

「こっちは人通りが少ないんだね」

 律は後方の大通りを一瞥して言った。
寂しい道よりも、殷賑の渦中を共に歩んでみたい。
澪が手を引いてくれている限り、人混みの中でも逸れる事はないのだ。

「上海路、市場通り、それと更にその奥の通り。
折角だから、その三つを全て、見せてやろうと思ってな。
安心しな、そっちの二つは賑やかだから」

 律は一言口にしただけだが、澪には十分だったらしい。
律の気持ちを汲み取って、繁華の路にも後で寄ると教えてくれた。

 澪の気の回りように、本当の逢瀬のように錯覚しそうになる。
偽装の逢引を練習しているという、程遠い状況であるにも関わらず、だ。
付言すれば、練習や食事だけを目的として、ここ中華街に寄った訳ではない。
食事をしながら、この後の段取りの最終的な確認を行うのだ。
53 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:23:34.01 ID:NAPwLUtio
「本当?ありがと、早く見たいな。
でも、人通りが多いなら、澪と逸れないようにしないと」

「不要な心配だな」

 澪が、握る手に力を込めてくれた。
律は忘我の心地で澪の手を握り返す。

「それに。目立つから大丈夫だよ」

 律が呆けて我を忘れているうちに、澪が続けて言った。
熱の消えない耳に届いた言葉を、思わず律は反芻する。

「目立つ?」

 直後、澪が進路を変えた。
気付けば、上海路は三叉路に突き当たっている。

「こっちだ」

 澪は質問に答えないまま、右の道へと律を誘導した。
犇めく店舗を挟んで大通りと平行している道である。
こちらは関帝廟通りと言うのだと、澪が教えてくれた。
沿って二人は、中華街を奥へと進む。

 曇天に阻まれて日光の直射こそ避けられているが、季節は夏である。
肌も汗ばみ始めていた。

「暑そうだな。でももうそこの通りだよ、律。後少しの辛抱だ」

 澪の励声を受けて進んだ先、右側に道があった。
この道が澪の言っていた市場通りなのだと、門に掲げられた文字が教えている。

 市場通りは、上海路に比して狭い道だった。
見通す限りでは並ぶ店構えも小さく、絢爛さでは見劣りしている。
だが、盛況ぶりや熱気は比べものにならなかった。
行き交う人で混雑した道に、軒を連ねた店舗から威勢のいい声が響き渡っている。
54 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:24:45.84 ID:NAPwLUtio
 澪が言っていた通りの殷賑に迎えられ、律は門を潜った。
この通りを先に進めば、再び大通りへと出る事になる。
澪は大通りと関帝廟通りの間でコの字を描きながら、中華街を進んでいくつもりらしい。

 食事も話し合いも、もう一つの通りも見物した後だろうか。
中華街に寄った目的を思い起こす律の傍らで、澪が歩みを止めた。
まだ、市場通りの門を潜ってから、然したる距離を歩いていない。

「ここだ。ちょっと寄り道するぞ」

 澪に連れられた店は、飲食店ではなかった。
土産物を扱う店らしく、龍やパンダを象った造形品が並べられている。
今居る一階だけでも品揃えは豊富だが、二階に続く階段も見えた。
上階にも、商品が溢れているのだろう。

「ああ、良かった。貴方が居てくれたとは、話が早くて助かります。
え?そうだったんですか?態々すみません」

 舶来の品々に没頭していた律だが、澪が女の店員と話している事に気付いた。
知り合いなのか、澪はこの時間帯に此処に来る予定を告げていたらしい。
澪の反応から察するに、店員の方もその時間帯に合わせ店番をしていたようだった。

「ええ、早速。
おいで、律」

 何かの話が合意に達したのか、澪の言葉を受けた店員が二階へと上がっていく。
間を置かず、澪は律の手を引いてきた。

「何?どうしたの?」

 訝しく質しながらも、律は招じられるまま澪に身を委ねた。
澪は店員の後を追うように、階段を上っている。
それでも律を慮ってか、足取りは緩やかだった。
55 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:25:30.86 ID:NAPwLUtio
「来れば分かるよ。楽しみにしてな。
誕生日、だろ?」

 澪が微笑の浮かぶ横顔を向けてくれた。律も理解する。
誕生日プレゼントを貰えるのだ、と。去年までも、毎年欠かさず貰っている。
偽装のデートの道中であっても、澪は律儀に例年通り踏襲してくれるらしい。

 ならば、中身に対する質問は野暮だ。
贈る側もまた、受け手の喜ぶ反応を楽しみにしている。
そして、それは口頭で先行して見るより、現物の披露と同時に見たいものだ。
律とて理解している。

「うんっ。楽しみにしてるね」

 だから今は、表情と言葉で期待を示すに留めておく。
内心でも喜んでいたから、自然に表出させる事ができた喜色と声色だ。

 澪はまた横顔を向けただけだったが、律の気持ちは伝わっているらしい。
相好を崩してこそいないが、頬の緩みは微笑の度を越えていた。

「ああ、すいません。お待たせしました」

 二階で出迎えてくれた先程の店員に、澪が一礼しながら言った。
会釈を返した店員に誘導され、二人は壁際へと進む。
歩きざまに見回した所、二階では中華風にデザインされた生地を扱っているらしい。
一階に比べて人の入りは少ないが、律達の他にも生地を物色する客の姿が見えた。

「ええ、間違いないです。オーダー通りです。ああ、はい」

 澪は生地を予め注文していたようだった。
店員から受け取った品物を確かめた後、受領書にサインをしている。
この店員と知り合いらしいのも、単に注文時に会話をしたからなのだろう。
56 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:26:24.59 ID:NAPwLUtio
 ただ、この店員は懇意にも、澪の来店する時間帯に店で構えて居てくれている。
また、澪の口振りから推しても、事務的な会話のみ交わした間柄とは考えづらかった。
こうもコミュニケーションが深まる手順を要する注文で、澪は何を贈ってくれるのか。
澪の背を見つめながら、明かされる時を律は大人しく待った。

「律、待たせたな。早速着てみてくれ。
折角のデートだ、律もおめかししないとな」

 受領書を受け取った店員が去ってから、澪が手渡してくれた。
手元に渡ったそれを、律は両手で広げてみる。
黄を基調とした布地に華の柄がデザインされた、チャイナドレスだった。

「いいの?嬉しいけど、高かったんじゃない?」

 生地の手触りが合成繊維などではなく、絹だと教えている。

「別に。大したものじゃないさ。
ただ、律には似合うと思う。人通りの少ない上海路は終わったんだ。
大勢の人に、お披露目してやりな。唯達にも、な」

 近くにある試着室を指差して、澪が言った。

「これ着てデートなんて、唯も羨ましがるね」

 唯達に見せ付ける姿を想像しただけで、胸が弾んだ。

「ああ、間違いない。そうだ、着替えは私が持つよ。
ほら、バッグに余分なスペースがあるからさ」

 試着室の前まで付いてきた澪が、ボストンバッグの口を広げながら言った。
澪は余分なスペースと言ったが、
空きを用意する為に大きなバッグを持って来たに違いない。
逢引には不釣り合いなサイズのバッグだと思っていたが、
澪は荷物が増えると分かっていたのだ。
57 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:27:34.36 ID:NAPwLUtio
「もうっ、手際がいいんだから。
似合うかどうか分からないけど、着てみるね。
一度、着てみたかったんだ」

 律はチャイナドレスを手に、試着室へと上がる。
そのままカーテンを閉じようとしたが、澪に抑えられた。

「待った。律ってチャイナドレスは初めて着るんだよな?」

「そうだけど」

 律はチャイナドレスに目を落とした。
着物と違い、着用がそう難儀とは思えない。

「じゃあ、言っておく事がある。大事な事だ。
いいか、全部脱いでから着るんだぞ」

 澪が真面目な顔で当たり前の事を言うので、律は笑い声を漏らしてしまった。

「分かってるよ。その分、澪には迷惑を掛けるけど」

「ブラジャーやショーツもだぞ?」

「えっ?ええっ?」

 澪の発言の意味が分かり、律は仰け反ってしまった。
笑顔から驚愕へと変わる表情を制御できない。
熱を帯びて赤くなる顔色も、制御できなかった。

「やっぱり知らなかったか。身体のラインが出ちゃう服なんだよ。
ブラジャーやショーツの形が出ると、見栄えに影響する。
それに、スリットも深いから、横からショーツが見えかねないぞ」

 下着の形が浮き出るという説は、律にも真贋を判じかねる話だ。
ただ、襟は閉じても、直下の胸元が菱型に開けている。
ブラジャーはそこから見えかねない。
58 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:28:45.74 ID:NAPwLUtio
 加えて、スリットからショーツが見える事も心配だった。
艶やかなランジェリーではあるが、ティーバックのようにサイドが極細という訳ではない。
素直に澪の忠言を容れるべきだろう。

「うん、分かった。何だか恥ずかしーしっ」

 律は含羞に衝き動かされるように、カーテンを勢いよく閉じた。
人前に顔を晒す事さえ憚られる程、今の顔色は羞恥で茹っているだろう。
この後は多くの人前の中を、外気に性器を触れさせながら歩く事になる。
その意味を考える程に、身体が火照って律の内から体液を湧き出させた。
汗が、滲んでいる。そう律は自分へと言い聞かせた。

「着替るまで待ってるから、ゆっくりでいいぞ」

 カーテンの向こうから、澪の落ち着いた声が聞こえてきた。
澪は急かしていないが、いつまでも悶えている訳にもいかない。
律は覚悟を決めると、脱衣に取り掛かった。

 メッシュ状の黄色いケープも、ベージュのキャミソールも律から容易に離れた。
赤を基調としたチェック柄のフレア状スカートにも手間取りはしない。
次いで、フリルの付いた靴下に取り掛かる。
上下で色合いをアシンメトリックに着こなしていた服が剥がれると、
律を覆うものは白で統一された下着のみとなった。

 否、もう一つあった。
律は時間稼ぎでもするかのようにカチューシャも外す。
額に落ちた髪を梳くと、律は深く息を吸った。

 胸を覆うブラジャーは、深呼吸の勢いを借りて取り払った。
円錐の双丘を為す乳房が、鏡にも映る。

「りぃ」

 初めて訪れた店で裸になるという実感が、改めて律を襲った。
店内の衆目から律を隔絶するものは、カーテン一枚でしかない。
──否、違う。
59 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:29:43.68 ID:NAPwLUtio
 律を守るベールは、カーテンなどという布一枚だけではないのだ。
その前には、姫を守る騎士の如く頼もしい澪が居る。
そうして律は兆した怖気と抵抗を取り払い、ショーツに手を掛けた。
隔壁が、落ちる。

 途端。
新鮮な蜜柑の皮を剥いた時、飛散して鼻腔を衝く鮮烈な香り。
その柑橘の甘酸っぱい匂いを、嗅覚が捉えたような気がした。
澪にも、嗅ぎ取られただろうか。

 律は蓋でもするかのように、慌ててチャイナドレスに肌を通した。
初めて着る衣装、着用の手順などは分からない。
ただ、飛散の門を覆いたい一心で、下腹部から服を身体に合わせてゆく。
股を基点に据えた着衣だったが、それでも腕を通す所まで着こむ事ができた。

 興奮と羞恥から、手付きは覚束ない。
律は手子摺りながらも、背中のファスナーと襟元の赤いボタンも閉じた。

「うー」

 鏡に映る自分の姿に、律は声を震わせる。
襟の下、胸元が菱形に開いている事には、チャイナドレスを拡げた時から気付いていた。
ボタンに手間取っている時には、そこから胸が覗けてしまう事も察している。
だが、実際に目にしてしまうと、恥ずかしさも一際だった。
閉じられた襟の下に開く菱形の空間は、これ見よがしに胸の谷間を露出させている。
直上の装飾を携えた赤いボタンも目立って、開きに注目してくれと言わないばかりだった。

 律は全体的に痩身だが、胸を中心に服が窮屈に感じられる。
澪のオーダーしたサイズが小さかったのだろう。
身体の曲線を映すチャイナドレスの特徴も相俟って、
律の身体の線が競泳水着のように強調されていた。

 尤も、服のサイズを目測でオーダーしたのだとすれば、その精度は決して低くはない。
胸の大きさを過小評価した程度には、収まっているだろう。
装飾の腕輪を二の腕に通しながら、律は澪の眼力を内心で擁護した。

 付属された装飾は、もう一つあった。
腕と脚に一つずつの輪、左腕には通したので後は足輪である。
それを太腿に通して、目視で具合を確かめた時──気付いてしまった。
顔へと走る朱の線を、抑える事ができない。
60 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:30:52.94 ID:NAPwLUtio

 律は立ち見で、下へと長く伸びた裾の上部を凝視する。
脚に嵌めた輪から、斜め上へと視線を転じた場所だ。
土嚢でも積み上げたかのように、恥丘が堆く隆起していた。

「っ」

 意図せず、荒い呼気が漏れる。
自分の身体の特徴は知っていたが、裸の時よりも目立って見えた。
突き出たそこから、匂いも放たれているように思えてならない。
視覚では勿論、嗅覚でも注意を惹き付けそうな有様だった。

 露わに突き付けて、人前を闊歩する。
考えただけで、胸に火が付いて全身を火照らせた。
体内の熱が逃げ場を求めて、肌を汗ばませる。
胸の鼓動と連動して、呼気も荒くなった。切なくて、息苦しい。

 律は興奮に指を震わせながらも、ショーツを手に取った。
自分が残した温度も湿気も、未だに残っている。淡く色付いてもいた。
これをそのまま、澪に渡す訳にはいかないだろう。
律は畳んだ服の間に、ショーツとブラジャーを挟み込んで隠した。

 ここまで終えると、もう試着室に用はなかった。
安全への名残を振り切って、律はカーテンに指を掛ける。
掛けた指が、震えた。
血液を打ち出す心拍の震動も胸板に響いて、心臓がポンプ機関であると実感させられる。
身の内奥から滾り噴くこの狂熱は、含羞だけが生み出せる情動ではない。
自分の身体の変化が、律に教えていた。
──澪に、見て欲しいのだと。皆に見せ付けたいのだと。
秘していたものを明かして、解放の悦びに浴したい。いっそ、淫したい。
羞恥と不安の先にある悦びを求めて、律はヴェールを捲った。
61 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:32:09.18 ID:NAPwLUtio
「おかしーし」

 素直な一言は出てこなかった。
羞恥に押され、右手が胸の谷間を庇う。
それでも、恥丘に手は添えなかった。
左手が腹部にまで動いたが、そこで留め置く。
情動を燃え盛らせるこの一線だけは、含羞を御して死守できた。

「ああ、似合うよ」

 律の口が逃げていても、澪は言って欲しかった言葉を口にしてくれた。
聞いた途端、律の目元に朱の縞が走る。
鏡も見ずに自覚できる程の熱を、律は顔に感じていた。

「これっ、着替えたのっ」

 喜色ばむ自分から注意を逸らすべく、律は畳んでおいた服を渡した。
受け取った澪はバッグに収める間も、そして仕舞ってからも、
律の全身を舐めるように眺め回している。

「サング?あんまり見られると、恥ずかしぃし」

「ああ、済まない、見惚れていた。ところで、律」

 澪の手が、律の右手を掴んだ。
強引とも言える力で、胸部を隠していた手が退かされる。
乱暴には感じたが、律は抵抗などせずにエスコートされるが侭に任せた。

「確かに、着痩せするタイプかもな。
こういう身体のラインが出る服だと、胸がそこまで小さくないって分かるよ」

 澪の視線が、律の胸に注がれている。
そう意識すると、余計に気恥ずかしさが増した。
連鎖して深まる自意識が止まらず、吐息が荒くなる。
62 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:33:34.42 ID:NAPwLUtio
「でも。身体は本当に細いよな。
ウエストなんて、ほら、こんなに括れて、綺麗な弧を描いている」

 澪の両手が律の腋に入れられ、側面を腰に向けて滑る。
澪の掌に肋骨を撫でられ、柔らかい横腹にも触れられた。

「ん、ひゃぁんっ」

 堪え切れなかった声が、喘ぎとなって律の口から漏れ出た。
澪の手に刺激され、身体が奥から疼く。

 腰骨まで撫で下ろされてから、律は澪の侵略から漸く解放された。
澪の手は緩慢な動きだったが、それでも十秒とは経っていないだろう。
だが律には、長時間に渡って愛撫されているような気分だった。
今も腰骨には、澪の手によって加えられた圧力の名残が燻っている。

「綺麗な身体のラインがくっきりだ。
ただ、そこは想定していなかったよ。
隆起が目立って、不躾な視線を引くかもな」

 澪の視線が、律の堆い恥丘を射抜く。
律は恥じらいに身を捩らせ、気付けば太腿を閉じて擦り合わせていた。
逃げる一方では、不審ばかりが目立ってしまう。
蹂躙される侭の我が身を叱咤して、律は話の矛先を転じるべく開口した。

「服がちょっと小さくて、ピッチリしてるからだし。
でも、見た目でサイズを判断したなら、かなり合ってる方だと思うよ。
見た目からサイズを推すのって、自信ある方?それとも、賭けだった?」

 話を変える意図こそ含めているが、目測の精度に対する礼賛は本心でもある。
サイズの規格で選ぶ既製の服とは違い、
オーダーメイドは店側にサイズを伝える必要があるのだ。
実測に依らずここまで適合させたのなら、それは称揚に値するだろう。

「いや、自信はないし、かと言って賭けでもない。
忘れたか?自分の身体のサイズ、皆で言い合ったじゃないか」

「あっ」
63 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:34:37.27 ID:NAPwLUtio
 律の口から、意図せず声が上がった。
この逢瀬の端緒である、スリーサイズを明かし合った日が蘇る。
すぐに恋人の有無へと場の関心が移ってしまった為、
澪の印象からも薄れていると思っていた。
それだけに、律は驚きを隠せない。

「あの時に言ったサイズ、憶えてたのっ?」

「ああ、記憶力はいい方だからな」

 澪は何でもない事のように言った。
律とて澪のスリーサイズは憶えているが、他の部員の細かな数値までは思い出せない。
張り合った梓のサイズさえ、律はもう忘れてしまっている。
澪にとっては記憶力の問題でしかないのなら、
律と違い彼女達のサイズも憶えているのだろう。

「ただ、私も唯達と同じで、見栄を張っているものだと思っていたよ。
そのチャイナドレスがタイトなのも、その所為だ。済まないな」

 澪の謝る声が、律の耳に降りかかる。

「別に、謝る事なんかじゃないよ、サング。
だって、ほら、実際に、恋人が居るなんて、嘘だった訳だし。
それが原因で、こうして嘘のデートに付き合ってもらってる訳だし」

「しおらしいな。でも、確かに謝る事じゃなかったかもな。
タイトになった分、強調された綺麗なボディラインを唯達に見せ付けてやれるよ。
ほら、次はその打ち合わせに行こう」

 澪が促すまま試着室から出ようとして、律は気付いた。
履いてきた黒いローファーブーツの代わりに、
ドレスと同色のチャイナシューズが揃えられている。
律は思わず、澪を見上げた。

「ああ、いいよ。チャイナドレスには、これの方が似合う。こっちは既製品だけどな。
サイズは下駄箱を覗かせてもらったけど、合うか?」

「ありがとう」
64 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:35:42.61 ID:NAPwLUtio
 礼を言いながら、律はチャイナシューズに足を通した。
大きさに過不足は感じない。

「うんっ、大丈夫っ」

「良かった。そうだ、その服。
唯達にはサングからのプレゼントだって言っていいよ。
どうせ恋人から何を貰ったのかとか、明日は色々と訊かれるだろうからな」

 確かに、明日は今日の事で、数多の質問を受けるだろう。
解答を用意できたと言うのは、心強かった。
そして、目立つ服で関心も引けるのだから、話題の集中も図れる。
襤褸が出るような質問を封じる効果も期待できるのだ。

「み……サングには頭が上がらないな。私の所為でこうなったのに、何から何まで」

「気にするな。この服に付いては、あの件は関係ない。
プレゼントは毎年上げているし、私も貰っている。
サングからって言うのも、唯達向けの対策なだけで。
友人としての毎年恒例のプレゼントだと、気楽に思ってなよ」

 澪はそう言うが、例年よりも明らかに値が張っている。
ただ、指摘はしなかった。
律に気を遣わせまいとする澪の配慮を、無下に扱いたくはない。

 それを踏まえて澪に報いたいのなら、行為で示せばいい。

「じゃあ、プレゼントのお返しは、サングの誕生日にさせてもらうね」

 その意気込みを律は宣した。

 願わくば。偽装の逢瀬を演出してもらう礼もしたい。
それは誕生日と言わず、機を捉え次第、今日にでも。
口には出さない思いも、律は自分の胸に宣した。
65 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:36:51.64 ID:NAPwLUtio
「期待しているよ」

 澪は言葉だけではなく、笑みも添えて返してくれた。
律の宣言が口先だけのものではないと、伝わったようだ。

 歩き出す澪の背を律は追って、そして並んで歩く。
店を出ると、また澪が手を取ってくれた。

「何処に行くの?計画とか、話すんでしょ?」

 市場通りも終わりに近づき、大通りも見えてきていた。
だが澪は、立ち並ぶ店舗の何れにも入ろうとしていない。
食事を摂りながら、最後の打ち合わせをする予定にも関わらず、だ。

「何処かって?勿論、律の行きたい所。
連れて行ってあげるから、安心して付いてきな」

 市場通りの出入口を左に曲がりながら、澪が言う。
新しい景色が開けた。
澪に伴われた律は、中華街の大通りを東門から遠ざかって奥へと進んでゆく。

 このチャイナドレスを受け取る時、澪は代価を支払っていなかった。
キャンセルの利かないオーダーメイドなのだから、前払いしていたのだろう。
サイズや意匠を指図した、その時に。
併せて、本日辿る道筋の下見も済ませていたに違いない。
澪の慣れた足取りが、不案内の地ではない事を教えている。
66 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:37:47.39 ID:NAPwLUtio
「うんっ。任せるから、連れてって」

 行きたい所など頭に浮かんでいないが、律は大船に乗った心地で行先を澪へと委ねた。
些事から要事まで、澪が備えを欠く事はない。
これから向かう先が何処であれ、期待が裏切られる事はないだろう。

「すぐ、そこだ」

 左手には、律も知っている有名な焼売屋が店舗を構えている。
店舗の角に、上海路や市場通りと平行する道があった。
焼売屋もこの道に渡って、二面に展開している。
──そして。

「ここだよ」

 澪に声を掛けられる前に、律は理解していた。
自分の行きたい場所とは、此処の事だったのだと。
道の出入口に設えられた門が、律にそれを教えている。

*

67 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:41:47.32 ID:NAPwLUtio
>>52-66
 本日は以上です。
チャイナドレスを纏う律は、二年以上前に拝見したイラストに多大な影響を受けております。
チャイナドレスは律に最も似合うファッションの一つだと、教えられた思いです。

 それではまた明日、よろしくお願いします。
68 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします :2016/08/10(水) 20:50:53.62 ID:u9YDDC8ko
こんばんは。
>>66の続きを投下します。
69 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 20:52:21.58 ID:u9YDDC8ko

*

6章

 門は質素な造りだった。
壮麗を極めた東門や、華やかな彩を放つ市場通りの門とは対照的である。
それでも律は望外の喜びを胸に感じていた。
この門の上段の看板に記された文字が、
見目の飾り気以上に乙女心を擽ってくる。
律の願望に沿おうという、澪の砕心が読み取れるからだ。

 そこには、こう記されていた。香港路、と。

「屁理屈というか、子供騙しで済まない。流石に海を越えた香港は敷居が高くてな。
ここで満足してくれるか?」

 澪は負い目を感じさせない声で言う。
それは代替を最上の形で提案した者だけが取れる態度だ。
そして、澪にはその資格があると、律の乙女心も認めている。

 あの日、律が勢いに任せて並べた願望を、澪は憶えていてくれたのだ。
この誕生日に香港で逢引など無理な話であると、言い放った律自身も承知している。
それでも澪は、夢想から零れた一言すらも大切にしてくれていた。

「過分のエスコートだよ。
軽く行きたいなんて言っちゃって、無責任な言葉だったのに、
こんな形で叶えてくれるなんて。夢みたい」

「律こそ言い過ぎだ。あくまで、強引なこじつけさ。
今は此処で満足して貰うしかないけれど、
本物の香港は本物の彼氏に連れて行ってもらいなよ」

 澪は夢のような舞台を提供してくれても、共有はしてくれないのだろうか。
どちらに掛かろうとも、”本物の”などという言葉で醒まされたくはない。
70 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 20:53:20.66 ID:u9YDDC8ko
「あーらサングったら、本物の彼氏だなんて、おかしな事言っちゃってぇ。
唯達が聞いてたらどうするのさー」

 律は口を尖らせ抗議する。
唯達が偶然通り掛かる可能性など、ほぼ零に等しい。
あくまで、牽強付会だ。

「これは一本取られたな。店に入るまでは、私も気を付けよう」

「いや、まあ、大丈夫だろうけど。じゃなきゃ、此処で今夜の最終確認ができないし」

 難癖に近い抗議に澪が真摯な対応を見せたので、律は思わず擁護の弁を放っていた。
直後、自分の抗議の正当性を守るべく、慌てて付け加える。

「でも、万が一って事もあるから、お店に入っちゃおうよ。
ほら、唯ってば食い意地が張ってるから、
デートを見る前に中華街で暴食、なんて可能性もあるでしょ?
お店に入って見通しが利く席を確保しちゃえば、
万が一唯達と遭遇しても危険な話をすぐ止められるし」

 糊塗すべく口から出た言葉は、悉くが言い訳のようだった。

「鉢合わせ云々は置いといても、その意見に賛成だ。
私も唯と同じで、食い意地が張ってるからな。空腹を早く満たしたいんだ。行こう」

 澪は律の物言いに怪訝を見せず、空腹を理由に急かしてきた。
有り難いと胸を撫で下ろし、律も澪の言に続く。

「あ、私も。お腹空いてる」

 律が言い終わるのを待たず、澪は動き出していた。
澪に手を引かれた律も、一歩遅れて門を潜る。
71 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 20:54:17.46 ID:u9YDDC8ko
 香港路は市場通りに比べれば、狭い道だった。
行き交う人で溢れた路に、通行人を招く声が飛び交っている。
律は歩きながら視線を右に左に、両側に並ぶ店舗を眺めた。
それらは外装や内装ではなく、あくまで料理で勝負する矜持を漂わせている。
上海路や大通りに比べれば店構えこそ小さいが、醸す熱気は勝るとも劣らずだ。
提供するメニューを壁面に貼り出して覆い尽くし、空腹の律を目移りさせる。
だが、澪は既に店を決めているのか、数多の誘引を無視して歩いていた。

「どの店に」

 入るの、と続けようとした所で、澪が足を止めた。
律は澪の顔を一瞥した後、視線を澪の眼差しの向きに沿わせて動かす。
視界を共有した事で、澪が入店を考えているらしい店が映った。

「此処?」

「ああ。いいか?」

 一見しただけでは、他の店との違いは分からない。
初見の地で店毎の差異を見分けられない以上、澪のエスコートだけが決定打だった。
期待はあっても、異議などあろうはずもない。

「うんっ。私も此処がいいなって、思ってたんだ」

 律は同意のみならず、共感も付して澪に阿った。
店の前に出ていた従業員も律達の視線に気付いたのか、
コースの貼られた看板を指差しながら声を掛けてくる。

「セット、ありますよー。二人様、こちらお勧めです。
おいしですよー。どですかー」

 此処では聞き慣れた発音の日本語だ。
律は澪と目を合わせてから首肯し、店員に従って入店する。
空調で冷やされた空気が、律の汗ばんだ肌を心地好く覆った。
72 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 20:55:27.60 ID:u9YDDC8ko
「二名様、入られましたー。どぞ、空いてる席にー」

 店員は店内に向けて日本語で客の来訪を告げてから、
律と澪に空席を一つ一つ指し示しながら続けて言った。
彼女が言い終わる前に、澪は既に動いていた。
奥の席に座った澪に従って、律も腰を下ろす。
澪がジャケットを脱いでいる間に、店員が大きなティーカップを運んできた。

「飲茶セットを二名分」

 澪はメニューも見ずにそう告げると、律の顔を窺ってきた。
律は首肯で追認を示す。

 注文を復唱した店員が去ると、澪はティーカップを口元で傾けた。
律も倣って、喉を湿らせる。
冷たいジャスミン茶が、人混みの熱気で茹っていた身体に染み渡った。

「うー、生き返るー。暑かったよね」

「ああ、夏だからな」

 季節を一つ違えたような恰好をしていたのに、澪は然して堪えた様子を見せていない。
思えば、部活でも澪は猛暑の中、凛とした姿勢を崩していなかった。
それどころかダイエットの為と、紬と共に着ぐるみを着込んだ事もある。
暑気で唯とともに身心を緩ませる律とは、対照的な強さだった。

「どぞー。なくなったら、言って下さい」

 暑がる律に気を遣ったのか、店員がポットを二つ机に置いてくれた。
律は姿勢を正すと、澪に小声で言う。

「私、そんなに暑がっちゃったかな?
気を遣って貰っちゃったみたい」

「この店はな、セットメニューを頼むと、ウーロン茶がお替わり自由になるんだ。
ジャスミン茶だけなら、無料で供する店もあるんだけどさ」
73 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 20:56:27.31 ID:u9YDDC8ko
 澪が机に置かれたポットを指差しながら言った。
見れば、各々のポットにラベルが貼られている。
澪の言う通り、ジャスミン茶とウーロン茶だった。
気遣われた訳ではなく、仕様だったらしい。

「良い店を選んだね」

 入念な下調べの苦労を想いながら、律は澪を労う。
澪は得意気な顔を浮かべ、身を乗り出してきた。

「律もそう思うか?
評判の良い店やコスパに優れる店なら、他にあるんだろうけど。
私達にとって一番大事なのは、やっぱりこれだからな」

 澪が両手で、各々のポットを軽く持ち上げた。

「そこなの?まぁ、計画とか色々話したり、時間までの暇を潰すには、
飲み物お替わり自由の方が良いけど」

 言った後で、律は澪の意図を読み違えたらしい事に気付いた。
澪が唇の前に人差し指を立て、片目で律を見ている。

「何だ、そういう意味で良い店って言ったのか。
いいか。私達は飲茶セットを頼んだよな?
で、中国茶を飲みながら点心を食べる事を、香港とかでは飲茶って言うんだ。
それを踏まえて、飲茶を英訳してみな?」

「Tea Time.あっ」

 答えて、律は澪の意図に気付いた。
同時に、胸の奥から共感の念が溢れてくる。
間違いなく、自分達にとって最も大切な要素だ。

「確かにね。やっぱり私達には、これだよね」

 上辺ではなく心底から、律は澪を肯んじた。
放課後TeaTimeというバンドの名に負わず、
律達は部活動で茶を飲みながら談笑して過ごしてきている。
紅茶から烏龍茶に変わろうと、英語から中国語に変わろうと、変わらない象徴なのだ。
74 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 20:57:40.95 ID:u9YDDC8ko
「そう。何があろうと、私達はこれで繋がってるよ」

 澪が律のティーカップに、烏龍茶を足してくれた。
律が一息に飲み干すと、今度はジャスミン茶が注がれる。
ジャスミン茶にも口を付けた時、最初の料理が運ばれてきた。

「ワンタンスープと春巻です」

 机の中央に春巻きの載った皿が配され、律と澪の前にスープと小皿が置かれた。

「二本だから、一本ずつみたいだね。サング、足りる?」

 律は澪を仰ぎ見ながら言う。
セットと云うのだから多種運ばれてくるのだろうが、大食の澪を満たすには心許ない量だ。

「私の事は心配するな。油分が多いから、見た目よりはボリュームがあるぞ」

「もしかして、私の為に、少ない店を選んだの?」

 小食の自分に配慮してくれたのだろうか。
律はそう思ったが、当の澪は首を振っている。

「いやいや、飲茶セットなんて何処もこんなものさ。
少量ずつ多種食べたい人用のセットなんだから、一種に付き一個で理に適う。
寧ろだ、サイズを見る限り、此処は多い方じゃないのか?」

「言われてみれば、脂っこいものを沢山は、私じゃなくても胃に重いかも。
でも色々な物は食べたい、そういう時に重宝するよね」

 澪の気遣いもあるのだろうが、飲茶セット自体も律に向いたメニューらしかった。
量は食べられないが種類は食べたい、律の適性に合っている。
75 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 20:58:43.97 ID:u9YDDC8ko
「ああ。それに油分が多いとは言っても、利点だってあるぞ。
茶が進む。特に、烏龍茶がな」

 澪が律のティーカップを指差して、空けるように促してきた。
澪が注いでくれたジャスミン茶は、カップの半分も満たしていない。
折角だから給しただけで、メインは烏龍茶で考えていたのだろう。

 律はジャスミン茶を飲み干して、ティーカップを空にした。
代わって容れてもらった烏龍茶と併せ、春巻きを口に運ぶ。
澪の言う通りだった。
脂っこさが烏龍茶の苦みと調和して、味わいに深みが出ている。

「おいしー。最近は紅茶ばっかりで、他のお茶はご無沙汰だったけど。
烏龍茶って、こんなに深い味があったんだね」

 律は感想を漏らす事で、澪への感謝を伝えた。

「中華料理との相性が良いからな。油分の吸収も抑えるし、黄金の組み合わせさ。
ほら、次の料理が運ばれてきたみたいだぞ。
普段とは違うティータイムだ、楽しむといい」

 澪の指差す方向に視線を向ければ、こちらに向かって盆を運んでくる店員が見える。
食欲を醸す匂いとともに近付いて来て、律達の机の前に止まった。

「韮饅頭と翡翠焼売、エビ蒸し餃子です」

 律と澪の前に置かれた蒸籠の中で、三種の点心が湯気を立てている。
律が始めに口へと運んだ韮饅頭は、味も風味も香味も濃かった。
だが、対処する術は知っている。
烏龍茶を間に挟む事で、癖の強い味を楽しむ事ができた。

「お醤油とかの調味料、要らない感じだよね」

 鮮やかな緑色の映える翡翠焼売を食みながら、律は言う。
76 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 20:59:43.68 ID:u9YDDC8ko
「スーパーとかで売ってる惣菜との違いだよな。
味が濃いから、ゆっくりと烏龍茶を飲みながら食べるといい」

 そう返す澪は、運ばれた点心を既に平らげている。
口の小さい律とは違い、澪は一口に頬張っていったようだ。
部活のティータイムでも、食べ終わる速度は澪と唯が最も早い。

「話でもしながら、な」
 
 続けて放たれた一言に、律は顔を上げて応じた。
その話も兼ねて、中華街まで来ているのだ。

「うん、今夜の事とか、話さないとね。
今はまだ唯達も、横浜には着いていないはず」

 律は周囲を見回してから言った。
唯達が居る訳ないとは分かっている。それでも身体が勝手に動いていた。

「指定時間まではまだ大分あるからな。
まぁ、早く来て時間まで観光してる、とかも考えられるけど、唯の事だ。
早く来る可能性より、遅刻する可能性の方が高いだろう」

 澪が含み笑いを漏らした。
律も釣られて笑う。

「小龍包とゴマ団子です」

 店員の声を機に、律と澪は笑声を落とした。
小龍包の蒸籠とゴマ団子の皿が机に配されてから、律は澪に改めて問う。

「唯達のウォッチポイントって、ワールドポーターズの屋上だよね?
サングに貰ったメールは、指示通りに唯達三人に転送しておいたけど。
あそこから、私達って見えるのかな?」

 唯達のウォッチポイントは、澪が決めていた。
律は澪から、位置や視点まで細かく指定されたメール文面を貰っている。
一昨日、律はそれを転送しただけだ。
だから、具体的に自分達がどのようなデートコースを辿るのかまでは分かっていない。
77 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 21:01:02.53 ID:u9YDDC8ko
「律は分かっても私は分からない、くらいの見え方にしなきゃいけないのさ。
そういう風に行動するよ。
ああでも、今日の律は分からないかもな。自撮りしてLINEに画像を流しておきな」

「自分で撮るの?」

「ああ、その方が自然だ。
唯達がデートを見物する事なんて、彼氏は知らない設定なんだからな」

 澪は律のカップに烏龍茶を足しながら答えた。
食べる随に烏龍茶を飲もうとも、澪が機敏に注ぎ足してくれる。
お蔭で、ティーカップが空になる事はなかった。

「うー、そうだね。撮って部活のグループに送信しておくよ。
で、実際に見せる時の、私達の行動のプランなんだけど。
私達がどういうルートを辿って、どう行動するのか、教えてもらってもいい?」

 唯達をどう誘導するかの指示は受けていても、
自分達が動く時の委細は教えてもらっていない。

「憶える事なんて何もないよ。だから、教える程の事じゃない。
律はただ、私と一緒に行動して、私に付いて来ればいいだけだ」

 澪は豪快に小龍包を口に詰め込んだ。
詰まる様子も見せずに咀嚼して嚥下する、咽喉の動きが見えた。

「うー。それは頼もしいけど。
演技するんだから、私も少しは知っていたいよ。
じゃないと、尤もらしく振る舞うポイントが」

「そこがいけないんだよ」

 律の言葉は、澪の喝破するような声に遮られた。
78 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 21:01:53.10 ID:u9YDDC8ko
「演戯しようと意識し過ぎると、却ってあざとい挙動になって、不審だぞ。
いっそ、知らない要素があった方が自然に振る舞える。
唯達にどう見せるかじゃなく、彼氏にどういう自分を見せたいか、に専念しろ」

 澪の指示に、律は顎を落として肯った。
澪をここまで巻き込んでおいて、自分の失態で計画を台無しにしたくはない。
何より。澪にどういう自分を見せたいのか、実践してみたくなっていた。

「五目炒飯です」

 目の前に五目炒飯が置かれた。
店員は空いた皿を手に、厨房へと戻ってゆく。
澪の前には五目炒飯だけが残ったが、
律の前には未だ食べ終えていない料理が留まっていた。

 それでも澪に急かす様子はなかった。
律のティーカップに何度も烏龍茶を注ぐ行為が、無言のメッセージを表している。
ゆっくりとティータイムを楽しめ、と。

「デザートのー、杏仁豆腐です」

 澪が五目炒飯を食べ終わった頃合いに、デザートが運ばれてきた。
これで最後だろう。
律はゴマ団子を嚥下すると、五目炒飯へとレンゲを伸ばした。
澪は杏仁豆腐には手を付けずに、待っていてくれている。

「サングも手伝って?」

 律は五目炒飯を卓の中央に寄せ、援けを乞うた。
食べ切れそうにもない。
澪もこの事態を見越して、素早く食べ進めていたのかもしれなかった。
遠慮する事なく、空になった皿を差し出す事で応えてくれている。

 五目炒飯が終わると、飲茶のメニューも残りは一品である。
二人同時に、杏仁豆腐の一片をスプーンに乗せた。
油分を多量に摂った直後だけあって、甘さと爽やかさが口中で際立つ。
二片目、三片目と、滑らかに食べ進めてゆける。
そうして、二人同時に食べ終わった。
79 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 21:02:52.88 ID:u9YDDC8ko
「少しは香港気分を味わって頂けたかな?」

 口元を紙ナプキンで拭きながら、澪が問う。 

「充分だよ。香港でティータイムが出来るなんて、思ってもみなかったし。
今までで最高の誕生日だよ」

 口にした後で、律は”未来も含めて”最高の誕生日だと気付いた。
胸に兆した寂しさを追い払う為にも、目先の事に没頭してしまいたい。
その効果を求めて律は、問いを付け加えた。

「まだ唯達とのデートまで随分と時間があるけど、この後はどうしよう?」

 店の時計を見るに、十四時にもなっていない。

「考えてあるよ。
会計を済ませて来るから、その間に自撮りして唯達に送信しておきな」

 澪が会計に向かった後で、律は指示された通りの行動に移る。
立ち上がって携帯電話を頭上に構え、全身が映るように斜め上から撮った。
人前で自分を撮る事に羞恥の念はあるが、嘲る者は澪に言い付ければ捨て置かないだろう。
勇を得た律は、顔、胸部、腹部から腰回り、太腿と、正面からの角度の写真も撮っていった。
それら五枚の画像とメッセージを唯達に向けてグループ送信し終えた頃、
会計を済ませた澪が声を掛けてきた。

「お待たせ。そっちの首尾はどうだ?」

「今、送信した所だよ。
今日のりっちゃんのファッション、って感じの簡単なメッセージを添えてね。
サングにも通知行ってるでしょ?
ねーね、ところでサング。幾らだったの?」

 律は自分の分は自分で出すつもりだったが、澪は首を振っている。

「いい。律は気にするな。今日はお前の誕生日なんだしな」
80 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 21:04:00.06 ID:u9YDDC8ko
「えーっ?悪いよー、悪いー。
誕生日って言っても、こんな素敵な服までプレゼントしてもらったんだし。
この上、料理まで御馳走してもらうなんて」

 律が恐縮しても、澪は奢る姿勢を頑として崩そうとはしない。

「私にも見栄があるんだよ。今日の私はサングとして、律の彼氏役なんだろ?
偽装とは言え、彼女に甲斐性無しのように扱われるのは屈辱的だ。
だからお姫様はこの程度の金の心配を一切するな。
生々しい現実の処理は一切を私が請け負う。
今日は私に恰好付けさせてくれ」

「っ」

 短い息が空を切る。
声を出そうとしても、舌が痺れて発声できなかったのだ。
澪の凛々しい態度に、芯から感電してしまっている。

「出よう。次の場所へ攫って行くよ」

 棒立ちしている律の腰に、澪の右腕が回された。
その侵略の早さは、驚きの声を上げる暇すらも与えてくれない。
右側に突き出た腰骨が、早々と澪の右手に掌握されていた。

「っ」

 変わらず、口唇から声は出ない。荒い吐息が、断続的に漏れるだけだ。

「おいで」

 律の腰部を抱く澪の腕に、力が籠もった。前へと促す圧力が、律の足を動かす。
そうして腰を澪に抱き支えられたまま、律は店を出た。
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 21:05:04.82 ID:u9YDDC8ko
 退店しても、澪に律を解放する様子は見えない。
腰部に回った澪の右腕に歩みを操られたままだ。
律もまた、熱が滾って発汗する身体を澪へと押し付ける。
掌握されて蕩けてしまった今、支えを失っては歩けそうにもない。

 多くの人が行き交う雑踏を、澪に連れられて歩いた。
注がれる多くの視線が、律を火照らせる。
自意識過剰なのだと自分に言い聞かせても、身に受ける注視の圧力は消えない。
大通りに入ると、より多くの目が律を迎えた。

「ほら、律が綺麗なものだから。皆が一瞥しちゃうよな」

 澪が耳元で囁く。自分の思い過ごしではなく、本当に注目されていたのだ。
店内で自分を撮った時よりも、胸が含羞に疼く。
一人で自分をカメラに映した時よりも、二人で居る今の方が面映ゆい。

「もー、サングったら、何を言うのかしらー。サングが恰好良いからでしょ」

 羞恥を糊塗するように戯けた態度で返したが、言葉自体には本音も含まれている。
今の澪こそ、衆目を振り向かせるに足る凛々しさがあった。

「いーや、律だな」

「んーん、サングだよ」

 言葉を交錯させてから、律は笑みを零した。
梓あたりが見ていれば、『バカップル』と形容するに違いない遣り取りである。
傍から見て呆れられるような言葉の応酬を、澪と交わせる事が嬉しかった。

「何笑ってるんだよ。
全く、律は強情だな」

 そういう澪も微笑を浮かべている。
律の笑みに釣られただけなのだろうが、この気分を共有しているのだと錯覚していたい。
82 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 21:06:08.39 ID:u9YDDC8ko
「これだけは退かないもーん」

 律は言って、澪の胸元に頭を寄せた。
曇天とはいえ、密着すれば暑さも増す。
それでも離れるつもりはなかった。
茹だる暑気さえ、寄り添う悦びの前では障害にもならない。

「いや、でもやっぱり律だよ。ほら、皆そこに目が行っちゃってる」

 耳元で囁く声に衝かれ、律は澪の瞳の先へと視線を沿わせた。
途端、反論しようもない物証が、目に飛び込んでくる。
布地を盛り上げる、隆起した恥丘。
本当に、見せ付けているかのようだ。

「なっ、馬鹿ぁっ」

 律は八つ当たりの怒声を上げてから、衆人の投げる一瞥の焦点を窺ってみた。
澪の指摘を裏付けるように、”そこ”一点に注がれている。
自分の身体の一番熱い所を見透かされているかのようだった。
意識すればするほどに、衆目から放たれる熱線が威力を猛らせて襲ってくる。

 だが、その視線に、もう圧されはしなかった。
羞恥が消えた訳ではない。羞恥を乗り越えただけだ。
感情同士の鬩ぎ合いで、喜悦が羞恥を打ち負かしたのだから。
83 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 21:07:14.26 ID:u9YDDC8ko
 気付けば、中華街の東門が間近に迫ってきていた。
中華街に入った時と同じ門なのに、違う自分になったような心持で潜る。
確かに別世界へと案内された気分だ。
そして自分がお姫様で居られる時間は、まだ終わっていない。
ゲートを潜ってもなお、律は別世界に生きていた。

「次は何処に攫っていってくれるの?」

 東門を出て真っ直ぐ歩きながら、律は首を傾げて問う。

「すぐ、そこだよ」

 律が澪の答えを聞いて、前方へと目を向けた時。
元町・中華街駅の出入口が、後方へと過ぎていった。

*

84 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 21:13:11.84 ID:u9YDDC8ko
>>69-83
 本日は以上です。
 当方、横浜に地縁はございませんので、実際と掛け離れた描写が今後とも目立つものと思われます。
その点、お目溢し頂けましたら幸いです。
 それではまた明日、よろしくお願いします。
85 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします :2016/08/11(木) 04:28:33.83 ID:Z9jZJr810
サンジュネタとはリドルさんにしては珍しいですね。名前だけとはいえ
86 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:35:44.84 ID:2B6vRpJ6o
こんばんは。
>>83の続きを投下します。
今回は長いです。
87 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:36:22.19 ID:2B6vRpJ6o

*

7章

 本当に時間は掛からなかった。
東門から直進して、五分も経っていない。
それだけの時間で中華の雰囲気から一転、緑葉茂る木々を散在させた公園に着いていた。
入ってすぐの噴水を迂回して進んだ先では、アスファルトの道が横長に伸びている。
その向こう側は、海だった。
向かい風が海水を擽って、律の鼻に潮の匂いを届けてくる。
波が岸壁に当たって砕ける音も空気を震わせ、律の鼓膜を叩いた。

 右に目を動かせば、鎖で岸壁に繋ぎ止められた船が映った。
そして道の手前側、即ち海の対面にはベンチが並べられている。
だが、そこに腰掛けて海を眺めている人は少なかった。
活発に道を往来する人の多さとは対照的である。
どちらにも属さない律は、澪の隣に立って瞳を右往左往させていた。

「山下公園だよ」

 海に沿って展開するこの公園の名前を、澪が教えてくれた。
律とて、名前くらいは知っている。
みなとみらい21や中華街に比して知名度でこそ劣るが、それでも有名な場所だ。
観光の名所として、或いはデートのスポットとして。

 事実、中華街ほどの密集ではないにせよ、
団体客、親子連れ、そして恋人と思しき男女の組が視界に絶えない。
観光名所の名に負わず、写真を撮る人の姿も目立つ。

「此処が、あの山下公園。人気のデートコースだよね」

 律は声に出して、自分へと言い聞かせる。
そうする事で、デートスポットに澪と一緒に訪れられた喜びを胸へと浸透させた。
88 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:37:44.29 ID:2B6vRpJ6o
「そうだな。アリバイ作りには丁度いいだろ?」

「アリバイ?」

 律は澪の言葉を反復した。
澪の発言の意図自体は、聞いた瞬間に理解できている。
ただ、気分を壊された不満が、衝動的に口から漏れてしまっただけだ。

「ああ。夜、唯達に見せるのは、デートの途中から、って設定だろ?
だったら当然、その前にも私達はデートしているはずだよな。
明日、自分達が見る前は何処で何をしていたのかって、唯達から訊かれるかもしれない。
こうして事実を作っておけば、中華街と山下公園に行ってましたって、答え易くなるぞ。
実際に訪れているんだから、襤褸は出にくい」

 分かり切った説明が、律に現実を突き付ける。
デートスポットに立ち寄った事も、唯達を騙す策の一環でしかないのだ。
勿論、澪の気遣いに感謝はしている。
律の頼みを周到な計画と入念な準備で先導している上、
魔法に掛かったような夢の舞台まで演出してもらっているのだ。
一日限りの夢とはいえ、忘恩に等しい不満を抱くべきではない。

 そして、明日になれば魔法は解け、自分達の関係も友人でしかなくなる。

「じゃあ、デートっぽい事をしておかないとね。
唯達に言っちゃった大言壮語、実現するくらいにさ」

 ならば、せめて魔法が掛かっている今を、精一杯に享受しよう。
律は明るい声を出すと、岸壁へと走り寄った。

 足を運ぶごとに、右手に見えていた船が正面へ近付いていく。
船の舳先を真向かいに捉えた所で、律は立ち止まって手摺に手を置いた。
眼下に収めた海面と陸地の境界面では、小波がコンクリートに当たって弾けている。
その度、水飛沫とともに潮の匂いが飛散した。

「あっ、律」

 人の間をすり抜けながら、澪も追い付いてきた。
89 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:38:45.30 ID:2B6vRpJ6o
「まだ、航行している船なの?」

 鎖で繋がれた船を見上げて、律は呟く。

「いや、昔の船だ。運航から引退して、もうそれなりの年数が経ってる。
展示されているだけだよ」

 隣に並んだ澪が教えてくれた。
船首の下の船体には、この船の名称が書かれている。
一瞬、いつもの癖で『丸川氷』と読んだが、
右から左に『氷川丸』と読むのが正しいのだろう。
横文字が逆に流れている所にも、この船が経てきた長い年月が表れている。

「外観だけじゃなく、中も見れるけど。入るか?」

 澪の指に沿って右方へと目を向けると、船の側面へと続く足場が洋上に設けられていた。
その上では、入場する者と退場した者が擦れ違っている。
足場の更に右方に、チケットの売り場らしき窓口も視認できた。

「デッキには出れないんだよね?」

 船の舳先に目を転じて、律は澪へと問い掛けた。
出られたとして、やろうか、やるまいか。律は迷う。
やるとしても、澪の協力は不可欠だ。

「ああ。デッキが開放される日もあるけど、平日は立ち入れないな」

 澪の返答を聞いた律は、落胆と同時に安堵も感じていた。
デッキに出る事が出来たとしても、実践には羞恥の壁がある。
ましてや海の方向は、ここから視認のできない船尾だ。
恥じらいを忍んでも、律の望みが叶うとは限らない。
90 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:39:32.26 ID:2B6vRpJ6o
「じゃ、私はいいや。
でも、サングが見たいなら、私も付いていくよ」

 律は辞する意思を見せつつ、最終的な決断を澪に委ねた。
本音を言えば、デッキに出られないのであれば踵を返したい。
願望を諦めた律の内部で、別の焦燥が疼き始めている。
飲茶で大量に飲んだ烏龍茶が響いて、膀胱が尿意を訴え始めたのだ。
内装を見学するだけでも興味はあるものの、こちらの鎮静化が先決に違いない。
船中にも手洗いはあるのだろうが、事は急を要するだけに手間の少ない方を選びたかった。

「いや、私もいいよ。
でも、ここで他にやりたい事もないなら、中の展示物だけでも見てみるか?」

 律の内心の焦燥を組んだ訳ではないだろうが、澪も乗り気を見せなかった。
入船すると言ったなら、先に手洗いだけ行かせてもらおうか。
そう対策も思い付いていたものの、不要となった。

「ベンチに座って、海を眺めていたいな」

「夏の海も、そろそろ見納めだしな」

 律の提案を容れた澪が、手を握って先導してくれた。
二人、船から遠ざかる方向へと、海の際に沿って山下公園を進んでゆく。
噴水のある広場が左手に見えた。自分達が入園してきた場所である。
そこを通り過ぎた辺りで、澪が足を止めた。
背の高い澪の目線が落ちて、背の低い律の瞳に向く。

「ここでいいか?」

「うん。丁度、ベンチも空いてるし」

 目を合わせて問う澪に、律は即答した。
見晴らしだけで言うなら、ベンチに座るよりも手摺の前で立っていた方がいい。
殊に噴水の前の歩道では、バルコニーのような扇形の突端が海側に設けられている。
反面、ベンチは舗道の緑地側に据えられており、眺望で劣る事は避けられない。

 だが、律は体力がなく、澪は軽くない荷物を持っている。
落ち着いて海を観賞するには、座っていた方が良かった。
91 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:40:30.55 ID:2B6vRpJ6o
「じゃあ、ここにするか」

 律の返答を確認した澪がベンチに腰掛けたが、当の律は座らなかった。
落ち着いて海を鑑賞するには、下腹部で疼く焦燥を鎮めなければならない。

「律?」

 澪の首が怪訝そうに傾ぐ。
座る素振りを見せない律に、不審を抱いているらしい。

「えーとね。ちょっと、席外すから。ここで待っていてくれる?」

 顎の前で両手の指を合わせ、恥じらいが伝わるように言った。
澪ならば仕草だけで、律の意図を察してくれるだろう。

「場所は分かるか?何なら、連れて行こうか?」

 律の期待した通り、澪は理解してくれた。
のみならず案内まで申し出てくれたが、律は両手を振って遠慮する。

「えっ?いいよ。サングには、荷物と場所の番を頼みたいし。
だから、場所を教えて?何処が一番近いの?」

 途端、澪の眉根が不愉快そうに歪んだ。
表情の変化は一瞬だったが、見間違いという事はないだろう。
素直に教えてくれると思っていただけに、意外な反応が網膜に焼き付いて離れない。

「場所って、何の場所だ?
それを伝えてくれなきゃ、私も教える事ができないな」

 分かっているくせに。
意地悪く惚ける澪に、律は口を尖らせた。

「何のって、分かってるじゃんかー」
92 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:41:20.29 ID:2B6vRpJ6o
「ああ、自動販売機の場所か?曇天とはいえ、夏だもんな。
じゃあ、私が買って来てやろうか?
五百ミリの冷たい缶ジュース、一気飲みさせてやるよ」

 澪は言って、嬲るように笑う。
尿意もいよいよ激しさを増した今、
五百ミリもの冷水を一気に飲ませられたら堪ったものではない。
澪は間違いなく、分かっていて律を虐めているのだ。
気に触る事をした覚えのない律は、涙声になって訴える。

「虐めないでよ。何処の場所を聞いているかなんて、言わなくても分かってるくせに。
どうしてそんな」

──意地悪言うの。
と、続ける事はできなかった。代わりに「りっ」と、短い声が律の口から走り出る。
澪に腕を掴まれ、強引に彼女の太腿の上に座らせられたのだ。
驚きと身体に掛かる引力が、律の言葉を奪っていた。

「言わないと分からないのは、お前も同じだと思うけどな」

 耳元で囁かれ、律は心臓を掴まれたような気がした。
心の奥底まで抉り取っていく刃が、澪の声に乗せられている。
言わないと伝わらない。その事実が、澪の言葉とともに重く重く圧し掛かる。
感じ取らせるだけでは、圧倒的に不足だ、と。

「ほら、言ってごらん?取り返しが付かなくなる前に」

 今度は圧力を心ではなく身体に感じた。
律は堪らず、身を捩らせる。
澪の指に下腹部を押されたのだ。
強い力ではない。
だが、尿意が迫り上げている今は、脅威の衝撃となって律を見舞った。

「ん?」

 澪は急かすような声とともに、無慈悲にももう一押し加えてきた。
先程よりも、強い力で。
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:42:18.78 ID:2B6vRpJ6o
「んっ」

 滴が零れそうになり、律は慌てて下腹部に力を込めた。
猶予はない。意地を張っていれば、沈黙は致命傷に至ってしまう。

「お手洗いっ。私、お手洗いに行きたいの。
だから、お手洗いの場所、教えて」

 澪は満足したような顔を浮かべると、律を解放してくれた。

「良く出来ました。まぁ、あれだけ烏龍茶を飲めば、そうなるよな」

 飲ませた張本人に言われたくなかったが、抗議などせずに言葉を待った。
時間が惜しい上に、機嫌を損ねたくもない。

「この角を真っ直ぐ行くだけだよ。そこにある小さい建物がトイレだ」

 澪が腋の角度を狭めて指差した道は、たった今通り過ぎたばかりの道だった。
噴水の脇を通る道のすぐ横に、平行した道が通っている。
続いて澪が指差した先に、律は確かに屋根の姿を認めた。
眼前の角を曲がって直進するだけの道程である。
一聴と一見に留めても、迷いようがなかった。

「ありがと。ここからなら、そんなに遠くないね。
じゃあ、すぐに戻ってくるから」

 礼だけ言って、律は爪先を手洗いに向けた。

「待て」

『マテ?』
 澪に留められては、急く足も止まる。
律は躾けられた犬のように、飼い主の指示を待った。
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:43:20.48 ID:2B6vRpJ6o
「もし野郎から声を掛けられたら、大声を出して私を呼べ。
この距離なら必ず聞き届けて、仕留めてやるよ」

 切れ長の目で律を見据え、澪が言い切った。
自分を独占するかのような言葉に、律は蕩けた瞳を澪へと向ける。
本当に、嫉妬深い恋人であるかのようだ。

「勿論、本当の彼氏ができてお役御免なら、唯達との問題は一番スマートに解決するけどな」

 だが、その感覚も直後の言葉で途切れた。
律が錯覚を起こす度、常に現実が突き付けられる。
目の前に居る恋慕の対象は、本当の恋人ではない。
窮地を脱する為に協力してくれている、親友なのだ。

 だからこそ、律は疑問だった。
此処で都合良く異性から求愛されて付き合えば、唯達との約束は嘘ではなくなる。
本当の彼氏として、逢瀬を披露できるのだ。
それを否む理由など、協力者の澪にはないはずである。

「でもな。そんな恰好している女に声を掛けてくるのは、どうせ下心がある奴だけだ。
その程度の野郎じゃムギや梓が心配するから、付いて行くなよ?
もっと落ち着いた時に、信頼できる相手を選べ」

 律の疑問を先取りした訳ではないだろうが、澪が噛んで含めるように言った。
言うまでもなく、この艶美な服をプレゼントした者は当の澪である。
それだけに、色欲が目当ての輩を追い払う義務も感じているのかもしれない。

 そして律は、先ほど行先を暈して一人でトイレに行こうとした際、
澪が怒っていた理由も分かった気がした。
だが、可能性としては有り得るというだけで、当て推量の域を出てはいない。
律は”他に思い付けなかった”という理由だけで、自信がないままに問い掛ける。

「もしかして、だけど。
サングがさっき怒っていたのって、私が無警戒だったから、なの?」

 護衛が含意された同行の申し出を、律は遠慮してしまっている。
澪の義務感を尊重せず、扇情的な恰好で一人歩こうとした格好だ。
澪が怒りを覚えても不思議ではない。
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:44:33.06 ID:2B6vRpJ6o
「怒ってないよ」

 律の問いを否定する澪は、涼しい顔を見せている。
だが、澪の言葉を額面の通りには受け取れない。
問い掛けた推測が間違っていたとしても、或いは本当に怒っていなかったとしても。
澪は間違いなく、律に対して尋常ならざる厳しい態度で臨んでいた。

 尤も、律にこれ以上追及する余裕などなかった。
膀胱が限界を訴えている。
額から脂汗を滲ませる程に、身を捩りたい程に、耐え難い衝動だ。

「なら、いいんだけど。ごめん、サング。
もう私、耐えられそうもなくて。行っちゃうけど、いい?」

 太腿を忙しく擦り合わせ、態度でも限界を訴えた。
排泄さえ管理されている我が身が、飼い犬のようにも思えてくる。
そのような自分を、惨めだとは思わなかった。
いっそ、本当に飼われて、調教して欲しいと願っている。

「ああ、行っていいぞ。引き留めてごめんな。
今も言ったけど、気を付けろよ」

 許可の出た律は、教えられた道を小走りに進んだ。
それでも履き慣れないチャイナシューズが、急く足の動きを抑えている。
肌に当たる向かい風も鬱陶しかった。背に腹は代えられない。
律は行儀の悪さを承知で、足を大股に動かした。
慣れない靴で無理に走っては転びかねないが、
大きな歩幅で移動するなら安全に距離を稼げる。
そう、思っていた。

 だが、注がれる無遠慮な視線が、律に失態を気付かせる。
大股で歩き始めた時は、然程気に留めていなかった。
下心のある者から見られているだけだろう、程度の認識でしかなかった。
しかし、歩を進めるうち、視線の主に同性も含まれている事を看取した。
自分の身体に何か付いてでもいるのだろうか。
地を大きく跨ぎながら、律は自身の肢体を見下ろした。
そして、頭に上る熱い血の気とともに、理解へと至る。
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:45:41.43 ID:2B6vRpJ6o
 深いスリットが入っている為に、脚の動きに裾も連動して靡いている。
その服を着て大股で動くとどうなるか、律の瞳は捉えていた。
太腿の上に載った裾は脚の動きに沿って滑り、脚の付け根をほぼ露見させてしまっている。
股さえ晒しかねない、際どい位置だ。

 知覚によって生じた夥しい感情の氾濫を、脳は慌ただしく処理している。
それが故、歩幅を縮めろという、脚部に発するべき脳の指令は間に合わなかった。
もう一歩を踏み出す動作が、始まってしまっている。
折り悪く、前方から一際強い風が吹いた。
太腿の内側へと滑った裾が強風に煽られ、横へと靡く。
澪にさえ見せた事のない花冠が、手折られる危機を迎えて──

「っ」

 無意識に裾へと手が伸び、赤裸々な露出は免れた。
裾の端に掛かった指が、際どい所だったと教えている。
律は裾を掛け直すと、顔を俯かせて歩き出した。
此処に留まって居られない。

 露出は免れたと言っても、正面からの話だ。
観測者の立ち位置次第では、網膜に収められたかもしれない。
考えてみれば、危機を自覚した今に限った話ではないのだ。
大股で歩き始めた時から、強風は幾度か受けている。
その間、性器を露出させかねない足取りで歩いていた。
視座によっては、覗けた者が居ても不思議ではない。
自分を見ていた周囲は、どのような感想を抱いただろうか。
考えれば考える程、頭が茹って赤面してしまう。

 幸いにも、手洗いは眼前に迫っていた。
律は顔を伏せたまま、視線の追跡から逃れるように突進してゆく。
晒した痴態を人目から隠したい一心が、律の足を動かしている。
そうしてコンクリートの壁を迂回すると、俯かせた瞳が灰色の四角い入口を視認した。
あの中に逃げ込めば、衆目を遮る事ができる。
お化け屋敷の出口に駆け込む童女のように、律は入口に身を躍り込ませた。
入った途端、安堵の吐息が込み上げてくる。
律は憚る事なく相好を崩し、喉に迫り上げた息を吐き出した。
97 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:46:45.41 ID:2B6vRpJ6o
「えっ?」

 顔を上げた律は、目に移る信じ難い光景に短い声を漏らす。
律を迎えたのは、男性たちの驚いた顔だった。
何故ここに律が居るのか分からない、彼等の顔にそう書いてある。
そしてその疑問が当然だと、律も瞬時に気付く。
忘我に飛び込んだ先は、男性用の手洗いだったのだ。

「りっ」

 謝る事さえ忘れて、律は飛び出した。顔が熱い。
直後に、隣接する女性用の手洗いに入ろうとしていた同性と目が合った。
男性用の手洗いから飛び出した律を見て、彼女の顔が驚愕に見開かれる。
そして間を置かずに表情が軽蔑へと変わり、彼女は足早に手洗いの中へと消えて行った。

 折悪しく、気まずい所を目撃されてしまった。
その上で軽蔑を隠さなかった彼女と、同じ場所に入りたくはない。
だが、膨張した膀胱が律の選択肢を奪っている。
律は息を詰まらせる思いで、彼女の後を追って女性用の手洗いへと入った。

 先程の女性は、折好く個室の中に身を収めた所だった。
変質者に向ける視線で遇されずに済み、律は胸を撫で下ろす。
しかし、安堵は束の間だった。
見回す目には扉の閉まった個室が飛び込むばかりで、不運を嘆息せずにはいられない。

 早く何処か空かないだろうか。
脂汗を滲ませながら、祈るような気持ちで律は待った。
太腿を擦り合わせて踵で足踏みし、身を捩らせて必死に耐える。
蹲りたい衝動は抑えられても、尿意に悶える身体を鎮める事は容易でない。
個室から聞こえる衣擦れの音にも、用を終える兆候であって欲しいとの祈りを乗せた。
手洗いの中では、音姫であろう擬音だけが絶えずに響く。

「澪の馬鹿ぁ、私の馬鹿ぁ」

 思わず澪を詰ってしまっていたが、間髪を置かずに言い直した。
直後に轟いた浄水の音が、律の思考を押し流す。
一日千秋の思いで待った扉が、遂に開くのだ。
98 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:47:58.31 ID:2B6vRpJ6o
 実際には、然したる時間は経っていないのだろう。
後続の者は誰も入ってきていないのだ。
だが、待つ身の苦しみの上では、秒針でさえもが緩慢に動く。
今も律は衣擦れの音に耳を傾けながら、穴を穿たんばかりに扉を見つめている。
もうすぐだと分かっているのに、一秒一秒が長く遠く遅い。

 焦らすような間を置いて、漸く先客が扉から出てきた。
待ちに待った瞬間だが、律は下腹部に刺激を与えないよう慎重に歩く。
歩く際の震動さえもが、響いて疼痛のように沁みた。

 個室に入って鍵を掛けた律は、便器の形状を改めて見遣る。
腰掛けずに済む和式である事に、安堵の吐息を漏らしていた。
抗菌スプレーの入ったバッグは、澪の鞄の中に預けたままである。
律は排泄の欲求に急く緊急時でも、衛生面への留意を忘れてはいなかった。
仮に洋式であっても、便座クリーナーやシートがあるなら我慢できる。
それさえなかったら、
トイレットペーパーを便座に敷くという窮余の策に出ざるを得なかった。

 これで安心して、身体の切なる訴えの通りに行動できる。
限界との戦いから開放されるという軽やかな安堵からか、便座へと踏み出す足取りは軽い。
だが、便座の脇に足を置こうとして、律の身体は電流が走ったように強張った。

 律は顎を引いて、身に纏う被服の長い裾を見遣る。
排泄など日常的な生理現象であるにも関わらず、
実際に直面するまでこの問題が頭に擡げる事もなかった。
律は眼球だけを動かして、何度も便座と裾を往復させる。
理解した事態ではあるが、悪足掻きの確認をせずには居られない。

「汚しちゃう」

 往生際の悪い作業を打ち切る為に、律は疾うに確かめ終わっている事を口にも出した。
裾の長いチャイナドレスでしゃがみ込めば、裾が便器の中に落ちて水で汚してしまう。
後方の床や前部の凸部に裾を流す等、方策を頭の中に浮かべてはみた。
だが、僅かな動きで、裾が便器の中に落ちる危険性を排除できない。
加えて、澪から貰ったドレスである。
乾いた床であれ、不浄の場で服を地に付けたくはない。
99 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:49:13.48 ID:2B6vRpJ6o
 裾を持ち上げればいいのだろうか。
足首にまで伸びる裾の長さを考えれば、非現実的な案だ。
裾を折り畳む事にも思慮を馳せたが、
前方のみならず後方も同様の処置を施さねばならない。
二本しかない手で、上手くできるとは思えなかった。
ましてや、事後に拭く事ができない。

 考え付く案が悉く不採用になる中、無情にも尿意は激しく募る。
膀胱に膨満する尿が波を打って、下腹部を内部から圧しているようだ。
もう、猶予はない。

 律は背中のファスナーに手を回した。
これから行なう事を思えば耳が熱くなるが、葛藤している時間はない。
膀胱が破裂せんばかりに膨張しているのだ。
律はファスナーを下限まで下ろすと、袖から両腕を抜いた。
乳房を露わにして、布が地に付かぬよう慎重にチャイナドレスから両足も抜く。
裾を汚さずに排尿するには、チャイナドレスを脱ぐしかない。

「きゃはっ」

 ドレスを畳んだ律が放った吐息は歪んで、笑い声のように弾けていた。
視界には、裸の我が身を映している。
公共の場で胸部も性器も晒して裸になるなど、我が身ながら変態に思えてならない。
この手洗いの壁を隔てた場では、多くの人が文明的な恰好で行き来しているのだ。
思えば思う程に、心臓が激しく波打って呼吸を乱す。
律の吐く息を、歪ませてしまう。

 淫猥な姿に堕したものの、これで漸く目的を果たす事ができる。
律は畳んだドレスを胸に抱えて、便座に就いた。
余裕はなくとも音姫のセンサーに指を近付け、作動させる事も怠らない。
そして川の流音の響く中、耐えてきた堰を切った。

「うわ」

 排出された液体の不規則な軌道に、律の口から呻きが漏れる。
予期した直線を描かずに、出ると同時に弾けて飛沫を散らしたのだ。
飛散は花火のように一瞬で終わったが、直後の軌道は安定していない。
水溶性の膜に覆われた蛇口から、水を放ったかのような動態が辿られていた。
通り道を邪魔する膜が流水に払われてしまえば、軌道も安定に至る。
事実、律の下腹部が楽になるに連れて、軌道も直線へと転じていった。
100 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:50:36.05 ID:2B6vRpJ6o

 律は初め驚きこそしたが、原因に付いては瞬時に察しが付いている。
相次ぐ興奮に見舞われる中で、性器から分泌された粘液が尿道口にも被さったのだろう。
流水を弾いて散らした膜の正体は、それに違いない。

 自覚とともに、性的な含羞を抱いた事象の一つ一つが思い出される。
中華街でチャイナドレスに身を纏った時から、律の身体を刺激して止まないものだ。
ここ、山下公園に着いても、興奮と羞恥は律の身から離れていない
殊に、澪と離れて手洗いに向かった時からは、その連続だった。

「うー」

 胸に抱えていたドレスへと顔を埋めて、律は唸った。
身を焼くような記憶が脳裏に巡って、顔を上げてなど居られない。
痴女に思われても仕方がないくらい、媚態を晒してきたのだ。
澪に告白できなかった小心者のくせに、と、律は胸中で呟く。
臆病者らしく、晒した痴態を恥じて落魄に窶していれば釣り合うのだ。
なのに身体は、身の程を弁えていない。
晒した痴態を悦ぶかのように、粘つく体液を分泌して生理現象の軌道さえ変えていた。

 顧みているうちに、用は終わっていた。
腹部の疼きも消えている。
律は顔を上げると、トイレットペーパーホルダーへと手を伸ばした。
早く拭いて、服を着てしまおう。
公共の場で裸身を晒して興奮する淫奔の沙汰から、早く脱したい。
そう思って伸ばした指は、手応えなく空振りしていた。
勢い、指と指が柔らかく当たり合う。

「えっ?」

 律は拍子の抜けた声を漏らした。
衝かれたように、ホルダーへと首ごと視線を振り向ける。
頭を垂れて謝するようなホルダーの蓋に、律は絶句する他なかった。
ホルダーの蓋を持ち上げてみるが、紙も希望も見当たらない。
律は忙しく個室内に視線を走らせたが、
予備のトイレットペーパーが瞳に飛び込む事はなかった。
101 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:51:38.00 ID:2B6vRpJ6o
「りー」

 律は弱々しい鳴き声を、唇の隙間から零した。
こればかりは、工夫や知恵で乗り切れる類のものではない。
壁越しの個室に話を通して、予備のペーパーを投げ入れてもらえないだろうか。
その案が脳裡を過ぎった直後に、自分へと軽蔑の眼差しを向けた女性の顔が蘇る。
頼める訳がない。
自分の痴態で頭が一杯になり、隣室の挙動など感知する余裕もなかった。
まだあの女性が隣の個室に居る可能性は、決して低くはない。
只でさえ、見知らぬ人にデリケートな儀を頼む事には抵抗があるのだ。
自分を蔑視で遇した人間に懇請するなど、律の弱い心が許容できる事態ではない。

 律は胸に抱くチャイナドレスを見遣った。
このまま、着るしかないのだろう。
理解はしていても、抵抗の念は消えずに残っている。
だからこそ、採り得ない解決策にさえ思いを巡らせたのだ。
貰ったばかりの服に、不浄の跡を付けたくはない。
排尿自体が綺麗に行えた訳ではなかった事も、律の葛藤に拍車を掛けている。
陰部に塗れる粘液が尿を爆ぜさせた際、全ての雨滴が便器へと散っていった訳ではない。
その粘液自身に吸着した尿が、今も律の陰部で泥濘んでいる。
染みや匂いを遮断する下着がない以上、布地や空気が泥濘へと直接触れてしまう。
そうなれば、他者の視覚に嗅覚に、赤裸々な主張を突き付ける惨事へと至りかねない。

 だが。こうしている間にも、澪が律の身を案じて待っている。
悪い男に絆されないよう、念を押して諭してくれた友人だ。
早く戻って、安心させてやりたい。
どうせ選ぶ余地のない懊悩なら、時間を空費しているに過ぎない。
逡巡を経た所で一本道は変わらず、通る時が今か後かの違いでしかないのだ。
結論の出ている事なのに澪を待たせる訳にはいかない。
澪を不安の渦中に置いて、焦らして煩悶させる訳にはいかない。
律は、覚悟を決めた。羞恥が何だというのだ。

 律は立ち上がりざま、チャイナドレスを広げた。
裾が床に付かないよう、そして布地が湿地に付かないよう、慎重に足を通す。
両腕も袖に通してチャックを締めると、僅かに姿勢を前傾させた。
腰を支点に、裾が下へと真っ直ぐに伸びる。
律は裾の具合を確認しながら、緩やかに背筋を伸ばしてゆく。
裾の布地が恥丘に触れたが、滲み出してはいない。
背筋が伸びきっても、染みが布地に浮き出る事はなかった。
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