黒埼ちとせ「メメント・ウィッシュ」
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21:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:59:13.10 ID:fM9nM/xA0
 それでも、俺は。
 俺の身体はまだ、涙を流せてはいなかった。できることなんて、ただ三十六度の熱を持った壁になることぐらいだった。
 神様に祈ったことは何度もある。だけど、今回は特別だ。
 もしも。もしもだ。定量化されることを、価値と無価値に分けられることをあんたが否定するのなら、俺がこうしていることにも、何かの願いや祈りが、そこに込められた意味があってくれるのだろうか。
 巷に雨が降るように、と、昔の詩人がどこかで言った。その通りだと、そう思う。なら、俺の心に溢れているものは、どうやったら外に出てくれるのだろうか。
以下略 AAS



22:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:59:59.33 ID:fM9nM/xA0
 月明かりに照らされた病室は、ドラマで見るよりもずっと静かで、背筋に粟立つような怖さがあった。

『……私は祈りました。願いました。お前も……お嬢さまに仕える者であるなら、そうしてはいかがですか』

 一頻り泣いた千夜を見送るときに聞いた言葉を思い返す。そういえば仕事の事後処理やら何やらで、まだ一度しかちとせには面会していなかったし、その時間だって短いものだった。
以下略 AAS



23:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:00:57.96 ID:fM9nM/xA0
 誰かの死に目に立ち会うという経験は何度かあった。
 縁起でもない話なのはわかっている。それでも今、死という場所に一番近いちとせを見て、それを思うなというのも難しい。
 死、という言葉を聞いたとき、人が考えるのは多分ありったけの苦しみとか痛みとか、そういうものであるはずだ。

 初めて誰かの死を見送ったのは、飼っていた猫の時だった。
以下略 AAS



24:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:02:11.96 ID:fM9nM/xA0
 正直、今のちとせの側にいて、俺ができることが何なのかなんて、病室にいる今でも見当がつかない。
 ただ、千夜の言葉を聞いたとき、俺は弾かれたように飛び出していた。そうしなければいけないという確信が、思考回路の演算を振り切って、両足を動かしていたのだ。

 今の俺に、できること。
 考える。このまま朝なんて一生来ないんじゃないかと疑いたくなるような沈黙の中で、ただひたすらに思考の海をかき分けて、記憶の引き出しを、おもちゃ箱でもひっくり返すように乱雑に開け放って、答えを探し続ける。
以下略 AAS



25:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:03:05.75 ID:fM9nM/xA0
 それでも。
 それでも、そんな夢みたいな奇跡がこの世界にも転がっていることを俺たちは知っている。

 天海春香がアイドル・アルティメイトの舞台に立った時、観衆の反応は明らかに冷ややかなものだった。テレビの前で見ていた奴らの中にも、無名の事務所の売り出し中とはいえよくわからないアイドルが画面に映ったとき、チャンネルを変えようとしたのはきっと少なくないはずだ。
 それでも、天海春香は奇跡を手繰り寄せた。彼女が話す言葉が、歌い上げた歌詞が、私を見ろと、天海春香はここにいると、そっぽを向いた人間の首根っこをひっつかんで、無理矢理彼女の方へと振り向かせたのだ。
以下略 AAS



26:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:03:54.70 ID:fM9nM/xA0
 言い訳をするつもりはない。だけど、死というのはそれほどまでに重いものなのだ。
 俺は神頼みこそよくするが、敬虔な信徒じゃない。それも特定の神様じゃなくて、八百万もいるんだから一人ぐらい叶えてくれと、そういう軽い気持ちでのものだ。
 だから、死んだら人は天国に行くなんて、とてもじゃないが信じられない。人だけじゃない。ありとあらゆるこの世を去ったもの全て、空の上で幸せに暮らしていますなんてことがあり得るだろうか。
 もしあり得たとしても、地上に遺された俺たちにはそれを確かめる術がない。だったらそんなのは、ないのと同じじゃないか。死んだら人は、猫は、物は、ありとあらゆる全ては、消えてなくなってしまうんだ。

以下略 AAS



27:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:05:14.08 ID:fM9nM/xA0
 それでも、彼は逆上しなかった。ちとせの言葉が、何か心火の炉に薪をくべたかのように撮影は異例の延長という措置を執られて、結果として彼女の宣材写真は非常に挑発的で蠱惑的、しかしまだあどけない少女の面影を残した笑顔を見事に映した一枚に仕上がったのだ。
 まるで、ちとせの言葉によって、初めからそう仕向けられていたかのように。
 魅入られている。十時さんのプロデューサーが俺に放った言葉が脳裏をよぎる。

 ちとせのルーツがルーマニアのブカレストにあると聞いたのは、あの桜の下でのことだった。
以下略 AAS



28:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:06:09.75 ID:fM9nM/xA0
「君には多分大きな借りがある。千夜のことだ。彼女と打ち解けるのは色々と苦労したけど、多分ちとせがいなかったら俺は匙を投げてたんじゃないかって思うよ」

 正直にいうと、俺は白雪千夜が苦手だった。
 初対面の印象が互いに険悪なものだったことを引きずっている節がないとはいわない。ただ、やっぱり決定的なのは、彼女がいつも自分の存在について「価値」という換算可能な概念で語っていることだろう。それは俺にとって、どうしても許しがたいことだったからだ。
 だが、蓋を開けてみれば千夜のそれは価値観じゃなくて呪いだった。そして、解かれなければいけないものだった。
以下略 AAS



29:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:07:13.41 ID:fM9nM/xA0
「この世界には、きっと奇跡が溢れている」

 十時愛梨が初めて灰の冠をその頭上に戴いたように、天海春香がそのきっかけになる時代を作ったように、そこから更に遡れば日高舞が、歴史の教科書に名前を残すような偉人たちが、歴史を転換させるような偉業を、奇跡と呼んで差し支えのないようなことを起こしてきた。
 俺はその存在を信じて疑わない。きっと奇跡は誰にだって訪れる。本の受け売りをまともに信じるのなら、人間には三回奇跡が起きるはずなんだ。それでも。

以下略 AAS



30:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 20:08:05.87 ID:fM9nM/xA0
「君は……俺にこう訊いたな。望みは何だと」

 忘れるはずもない出来事。かけられた言霊。それはきっと、俺の望みと、ちとせの未来予測を重ね合わせるための魔法だったんじゃないかと思う。俺の望みは、貴女の望む全てと同じですと、そう答えさせるための誘導。
 馬鹿げているとは思う。だけど、そうとしか思えない。ならば。

以下略 AAS



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