黒埼ちとせ「メメント・ウィッシュ」
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8:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:44:29.44 ID:fM9nM/xA0
 だが、巷を行き交う流行り廃りとは別の話だ。
 数年前に業界の中でも全く無名といって差し支えのない事務所が起こした奇跡があった。
 765プロダクション。今ではその存在とそこに所属しているアイドルの顔と名前を知らない人間は、この国でもきっと少数派だろうが、数年前はそうじゃなかった。
 天海春香をセンターに据えた765プロオールスターズの十三人は瞬く間にスターダムを駆け上がって、第三次アイドル戦国時代の嚆矢となった。これがもし、うちやライバルの最大手が仕掛けたことであったのなら、人々はそれほどの関心を持たず、彼女たちが日高舞の再来と噂されることもなかっただろう。
 そして、うちがアイドル部門を設立することも。
以下略 AAS



9:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:46:01.31 ID:fM9nM/xA0
 正直なところ、歯牙にもかけられていないと、そう思っていた。
 黒埼ちとせはトップアイドルになれる。俺はそう信じて疑っていないし、実際、着実に彼女のファンは加速度的に増え続けているが、まだ、そう呼ばれるに相応しい実績は積み上げていないのが実情だ。
 トップアイドルとなれば、しがらみも多いし関わる人間の数だってそうだ。十時さんは仲間だといったが、プロジェクト・シンデレラガールズの性質上、この事務所にいるアイドルたちは皆ライバル同士ということになる。
 勿論、765プロダクションの彼女たちだって当人同士はきっとそう思っているのだろうが、「敵」とまではいかなくとも、兄弟家族と呼ぶには遠い戦いの相手だというのに違いはない。

以下略 AAS



10:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:47:04.19 ID:fM9nM/xA0
 ちとせの言葉には、いつもどこかに嘘が含まれている。
 別に、彼女を嘘つきだと詰るつもりはない。それでも事実として、彼女は言葉の端々に冗談を交ぜて、まるでそこにある本当を薄めるかのような癖があった。

 俺を見て魅入られている、といったのは、他でもない十時さんを担当しているプロデューサーだった。
 彼は優秀だ。まだ駆け出しに毛が生えた程度の俺なんかより、遙かに。
以下略 AAS



11:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:48:11.40 ID:fM9nM/xA0
 多少の申し訳なさを感じながら覗き込んだ顔は、昼寝をしているように穏やかだった。そこに苦痛はないようにさえ見えた。

 それでも、さらさらと、今も少しずつ透明な何かが彼女から剥離しているのだろう。
 そして、その原因はわからない。倒れた理由も、いつまで無事でいられるのかも、何が剥離しているのかも、意識が戻るかどうかも、全部が全部不透明で宙ぶらりんなまま、ちとせは病室の中でたゆたっている。

以下略 AAS



12:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:49:28.16 ID:fM9nM/xA0
「ちとせさん、どうしたら目が覚めるんでしょう」
「……わからない」

 医者というスペシャリストが事実上匙を投げたのだ。彼女には悪いが、そんなことを素人の俺たちがわかるはずもない。
 持て余した右手に持ったエナジードリンクを流し込んで、喉元まで出かかった溜息を押し戻す。
以下略 AAS



13:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:50:23.56 ID:fM9nM/xA0
 空想。それらをまとめて括る言葉。十時さんと一緒にハンカチで床を拭きながら、俺は十時さんのプロデューサーが彼女を迎えに来るまで、白雪姫について、シンデレラについてずっと考えていた。
 全部、空想の文学に記されたことだ。毒の治療には解毒剤が必要で、カボチャに向けて何事かを唱えてみたって、この世界を支配している質量保存の法則を破れはしない。だから、問題はそこじゃない。

『……あなたの望みは、なぁに?』

以下略 AAS



14:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:51:54.75 ID:fM9nM/xA0
 幸いなことに、企画そのものは潰れなかった。
 上層部からの通達と事後処理を終わらせて、すっかり日の暮れた中庭でベンチに体重を預けながら、大きく溜息を吐き出す。
 まだ夜になりきれていない、夕焼けのオレンジが混ざった藍色のグラデーションはこうやって汚れていくんだろうか。煙草を吸うのは随分前にやめてしまったが、排気ガスとか、俺じゃない誰かが吐き出した副流煙とか、苦労か、絶望とか。
 そういうものを吸い込んで、街は夕方から夜に変わっていく。なんてこともない。ただ、現実逃避のように捻り出した、他愛も益体もない御伽噺だった。
 元々、LIVEバトルはこの事務所が定期的に行っている興業で、ノウハウ自体はマニュアル化されているし、何よりも出演者に十時愛梨がいるとなれば、それだけで金になる。
以下略 AAS



15:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:52:53.65 ID:fM9nM/xA0
『……以上のことから、今回のマッチアップはぎりぎりまで保留しておくのが妥当と考えられます。メディアへのかく乱と情報操作、及び興業の進行、事後処理については全て私の一任で行わせていただく所存であります』

 何一つ怯むことなく、海千山千の古狸が揃った上層部を相手に言い放った、十時さんのプロデューサーの姿を思い返す。
 それはつまり興行が失敗に終わったり、情報がどこかに漏れたりすれば自分が腹を切るという宣言に他ならなかった。
 正直、意外だった。理由はわからない。ただ、彼も今回のマッチアップには積極的で、そしてその働きがなければ俺の要望はいかに手管を尽くしたって通らなかったといっても過言ではない。
以下略 AAS



16:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:54:06.53 ID:fM9nM/xA0
「ああ、千夜か……そっちは大丈夫?」
「……これほど時間が経ったのです、多少は落ち着きました。お前に心配されるほどではありません」
「ならよかった」

 嘘だろう。鉄面皮と仏頂面を保ってこそいるが、缶コーヒーを包み込む、黒いタイツに覆われた千夜の指先は微かに震えていた。
以下略 AAS



17:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:54:55.75 ID:fM9nM/xA0
『お嬢さまは、価値のなかった私に意味をくれた』

 どこかで読んだ本に書いてあった。人生とは今まで積み重ねた過去の総和であると。
 だとすれば積み重ねた過去が全て無価値になる、無に帰することがあったのなら、そして更にそこから引き算が成されたら、人間はどうなるのか。
 大学時代にキルケゴールの本を読んで、レポートを書けという課題が出たのを思い出す。死に至る病だったか、宗教観が強くて大分癖のある本だったが、それでも多くの人間がタイトルから想起する通りに、絶望は人を死に至らしめるのだと、そういうことが書いてあったはずだ。
以下略 AAS



18:名無しNIPPER[sage saga]
2020/06/11(木) 19:56:01.21 ID:fM9nM/xA0
「……私は」

 永遠にも似たその重力を先に振り切ったのは、果たして千夜の言葉だった。
 震える唇が微かに紡ぎ出した、たった一言。それは知らない人間が聞いたのなら、いつもと変わらないように怜悧で鋭い響きを持っているようにも聞こえるのだろう。
 ただ、そこには絶望があった。きっと過去に戻って彼女の口からもう一度その名前を聞いたときにも同じ事を感じるのであろう、果てのない虚無。
以下略 AAS



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