過去ログ - アンリ士郎「汝の欲す所を安価にて為せ!(キリッ」一同「へー」
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2012/03/10(土) 21:19:17.82 ID:yheQES6i0
右側の木立のなかでバサリと音がする。雪ぼこりがたっていた。
杉の枝に積もった雪が落ちたのだ。舞子は耳を澄ます。どこからか読経の声がしてくる。
一人の声ではない。四、五人が唱和している声だ。
雪で覆われたゆるやかな石段。
石段の両側に広がる杉木立のところどころに僧房があり、それぞれが独立した修行の場となっている。
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2012/03/10(土) 21:22:44.10 ID:yheQES6i0
私は椿堂に向かう。ひと所に立っているのが苦しかった。
自分がつけたブーツの足跡のそばに、逆向きの跡を延ばしていく。
銅板葺きの屋根が十センチほどの雪で包まれていた。まだつららも残っている。
堂の左手にある椿は屋根の高さまで達して、無数の花をつけていた。葉上の雪と赤い花が色を競いあっている。
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2012/03/10(土) 21:26:34.46 ID:yheQES6i0
ライダーは不動明王の左右に位置する童子の木像にも眼を移す。
いずれも一メートルほどの高さで、初めの頃は朱や金で色付けされていたのだろうが、今では褪色して鉄錆色になっている。
左側の童子は、やんちゃな餓鬼大将といった感じだ。
捻れた棒を地面に斜めに突き立て、両手を重ね、その上に顎をのせてじっと前方を睨む。
遠くからやって来る人間共を眺めながら、さてどんな意地悪をしてやるかなと思案しているような顔だ。
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2012/03/10(土) 21:31:33.43 ID:yheQES6i0
しばらくたつと、買物や料理もできるようになった。
しかし、セラフの繁華街の人混みのなかで、私服姿のサクラを見かけたような錯覚にとらわれた。
知らぬ間に、サクラの好物だった江戸前屋のたい焼を買ったりした。
そんなときには買物を続ける気も失せ、そそくさと部屋に帰る。
悲しみは、赤く焼けた炭火のようにいつまでも残っていった。
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2012/03/10(土) 21:34:37.61 ID:yheQES6i0
「はい。不動明王もいいですが、こちらの童子も好きです」
私は微笑しながら答える。僧衣の男性と口をきいたのは、冬木の寺の者以来だ。
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2012/03/10(土) 21:36:52.01 ID:yheQES6i0
「この怒りの形相こそ、慈悲の窮極の姿です。
炎は一切衆生の煩悩を焼き尽くし、私共の菩提心を開発するのです」
「慈悲と怒りがどうして一緒になるのですか」
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2012/03/10(土) 21:39:37.84 ID:yheQES6i0
「このお不動様の本当の姿が如来様だと思うと、そのお気持ちが分かる気がします」
「知っていたのですか」
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2012/03/10(土) 21:47:12.02 ID:yheQES6i0
あのときの予感は正しかった。
サクラの死を目撃した瞬間、全身から血の気がひき、〈幸せはきのうまでで終わったのだ〉と考えた。
時間がそこを境にして変質していた。目が見、耳が聴き、手が触れるものすべてが無意味になっていた。
それはまだ続いている。おぞましいくらいに続いている。自分は生ける屍も同然だ。
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2012/03/10(土) 21:50:51.01 ID:yheQES6i0
「ついて来なさい」
僧が言った。命令口調ではなかった。私は僧の背中を見ながら、堂の外に出る。
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2012/03/10(土) 21:57:14.24 ID:yheQES6i0
僧はしかし、滝の方向には目もくれず、左側の建物に向かった。手前に門があり、木の扉が半開きになっていた。
立札には〈用なき者、立入りを禁ず〉と墨書してある。
僧は木扉を両側に大きく開いて、中に踏み込む。
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