何も無いロレンシア
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12: ◆SbXzuGhlwpak[sage]
2019/06/01(土) 02:35:32.55 ID:zJUkddjZ0
 まるで俺がとんでもない提案をしたかのように、女は目を見開いて後ずさる。あまつさえ体を小刻みに震えさせてまで。

「奴が逃げ出して時間は経ってしまったが、何せあの傷だ。血は失い、体のバランスも以前とは違って思うように走れない。血の痕跡もあって追いやすいだろう」

「で、でも……」

「オマエは疲れているだろうが、奴だって傷ついている。さらに奴は負け犬で、一方のオマエは怒りに満ちている。奴の方が争いごとに向いていることを差し引いても、勝ち目は少なくない。それに安心しろ。[ピーーー]手伝いはしないが、反撃でオマエがやられそうになったら割って入る」

 あれほど奴を憎んでいた。そしてその怒りは正当なもの。ならばそれを助けるのが人というものかと思っての提案だ。

 俺が代わりに奴を討つのがより良いのだろうが、奴の事ここに至ってなお生きたいという意思も尊重したい俺にとって、これが最大限の譲歩だった。

「私は……私は……」

 何をそんなに迷うのか。女は決心が着かないようで、後ずさったことですぐ傍にいる姉に目を向ける。

 姉は気づかない。ここに居たのに、何があったのか理解していない。

 外界で起きた事を認知しようとしない。したくない。それほどの責め苦を味わった。

 俺は彼女の以前の姿を知らない。だが何となく顔つきと、この勝ち気な妹がこれほど慕っていることからおぼろげながら想像できる。

 きっと誰にでも優しく、柔らかな微笑みを浮かべる朝日のような女性だったのだろう。

 その姉を、こんなにされた。

 迷っていた妹の瞳が、見る見るうちに憎悪に上塗りされていく。

 手先は小刻みに震えたままだが、それでもゆっくりと短剣へと手を伸ばそうとし――なぜか柄に指をかける直前で止まった。

 不思議に思っていたら、妹は恐る恐る足元を見ている。

 何かと思えば、後ずさった拍子のことだろう。姉の指が服に引っかかり、俺から短剣を受け取ろうと前に進んだ時にそれが外れそうになっていた。

 別に姉が、妹が殺人を犯そうとするのを止めたわけではない。
 
 ただの偶然だ。何の労力も無く振り払える、か細い力。

「姉……さん」

 だが、意味の無い偶然に意味を見出すのも、また人なのか。傾きかけた天秤を元に戻すほどの効果があったらしい。

「姉さん……私……私……私はっ……う、うう」

 張りつめた糸が切れたのだろう。妹は膝を着くと、そのまま姉の胸に顔をうずめ泣き出した。

「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい」

 正気を失った姉に、壊れたように何度も何度も同じ言葉で謝る。

 姉は泣きじゃくる妹の嗚咽に合わせて、ただ揺らされるのみ。

 謝る理由はなんなのか。仇をとれないからか。それとも殺人を犯そうと考えたことなのか。俺にはわからない。

 余人ではわからないのか。それとも“何も無い”からわからないのか。

 わからないなりに気をきかせて、俺は盗賊たちが奪った金銀を探すついでにここをしばらく離れることにした――


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