162: ◆m03zzdT6fs[saga]
2013/09/07(土) 00:48:30.70 ID:XIq8vfkGo
事の発端は、社長に言われた通り私がスカウトに勤しんでいたことである。無論、私自身としては、怪しい動きをしていたつもりはまるでないし、そのような意思はない。
ただ、往々にして本人の意思とは別に、周りから見てどうなのか、というのが世間体と言うものであり、そういう意味では私は怪しい人であったのだろう。
こうやって職務質問を受け、注意されたのがその最たる証拠であった。
163: ◆m03zzdT6fs[saga]
2013/09/07(土) 00:49:12.34 ID:XIq8vfkGo
(今日は、もうやめておこう……)
ヘタにもう一度通報されて、さっきのおまわりさんがまたやってきたら、最悪任意同行を求められる可能性だってあるんじゃないだろうか。
迷惑防止条例違反で前科がついてしまうこと請負だ。
164: ◆m03zzdT6fs[saga]
2013/09/07(土) 00:49:51.09 ID:XIq8vfkGo
(夕食を摂るか)
心の中で呟くと、私はいつも通り、あのバーへと足を運ぶことを決めた。この時間帯であれば、ちょうど営業の転換時間である。
マスターには悪いが、いつも通りのサラダセットとブレンドコーヒーを頼むことにしよう。そう思って、私は足を向ける。
165: ◆m03zzdT6fs[saga]
2013/09/07(土) 00:50:17.63 ID:XIq8vfkGo
ごっつん。
同時に、私の額へと衝撃が走った。一瞬目の前がちかちかと明滅する。一体何事だと思ったが、何のことはなかった。あの防音扉が閉まっていただけだ。
『なんだ……』
166: ◆m03zzdT6fs[saga]
2013/09/07(土) 00:50:43.84 ID:XIq8vfkGo
『……え?』
この声を私は知っている。そして同時に、この声を私は”知らない”。言葉は矛盾しているようで、矛盾していない。
防音扉を閉める事も出来ず、私は、ただ聞き入っていた。
167: ◆m03zzdT6fs[saga]
2013/09/07(土) 00:51:14.60 ID:XIq8vfkGo
「――あ、あら、Pさん?」
しばらく聞き入って呆然としていた私だったが、歌い終わった彼女は気が付いたように、そんな言葉を私に掛ける。その表情は少し恥じらいを帯びていたが、それすら私の眼には入らない。
『……千秋さん、今のは』
168: ◆m03zzdT6fs[saga]
2013/09/07(土) 00:51:53.08 ID:XIq8vfkGo
私は多少申し訳ないと思いながらも、目を閉じ、耳をそばだてる。目を閉じたのは集中するためでもあったが、恥ずかしそうにしている千秋さんに少し配慮したからだ。
もっとも、こんなことで配慮とは言わないのかもしれないが……。
しばらくすると、すぅ、という深呼吸の音が私の耳に響く。それが、二度、三度と繰り返された。そして。
169: ◆m03zzdT6fs[saga]
2013/09/07(土) 00:52:43.80 ID:XIq8vfkGo
(……千秋さんは、どれほどのトレーニングを積んだのだろうか)
私が感じた”ガラス”の声は、決して悪い物ではなかった。今になってそう思う。あの声を手に入れるために、この世界では何千、何万の人々が苦心している。
彼女がトレーニングにトレーニングを重ねて手に入れた、鍛錬の証であるその声は、澄み渡った水晶と、方向性は違えど同じ尊さ、同じ美しさを身ごもった努力の結晶だ。
170: ◆m03zzdT6fs[saga]
2013/09/07(土) 00:53:10.39 ID:XIq8vfkGo
『……ああ』
私はゆっくりと目を開けた。そして、私は目に刻み付ける。
そこにいたのは、ただ一人の少女だ。苦しみ、励み、そして成し遂げた、どこにでもいる一人の少女なのだ。
171: ◆m03zzdT6fs[saga]
2013/09/07(土) 00:53:56.76 ID:XIq8vfkGo
「――、――ッ、――!」
彼女は歌う。伴奏はなくとも、曲が終わりに近づいているのはわかる。独唱でありながら、いや独唱だからこそか。彼女の歌声は聞く人の心を掴み、そして震わせる。
これが感動か。私は今、人生で初めてそれを痛感している。
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