301: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:24:03.59 ID:Bg3Eqo0s0
  
 今もそうであるが、公演の打ち上げのとき、彼は時々こうしてお酒を控えることがあった。 
 そして、そういう時に限ってこのみたちの誰かが酔い潰れたりして、結局プロデューサーに車で送ってもらうことになる、なんて事もよくあった。 
 このみは、彼がお酒を飲まないときは、自分達が安心をして、それで飲みすぎてしまうのだろうと思っていた。 
 けれど、二人の手の内をのらりくらりと躱し続ける彼を見て、このみはきっとそれだけじゃないのだと直感した。 
302: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:24:55.35 ID:Bg3Eqo0s0
  
 ふと彼の方を向いたとき、ミネラルウォーターのペットボトルが目に入った。 
 それを見て、このみは閃いた。 
  
 「ねえ、莉緒ちゃん。その御猪口貸してくれる?」 
303: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:25:31.04 ID:Bg3Eqo0s0
  
 思わず、彼はそう言葉を漏らした。 
 彼は、今のこの状況を掴めないといったふうに、自分の手に握られた御猪口とこのみを、交互に見た。 
 それから風花が、このみさんからだったら受け取るんですね、と小さく零したところで、彼ははたと我に返った。 
 すっかり拗ねてしまった風花を彼がなだめすかしている間に、このみは目一杯ぴんと腕を伸ばして、テーブルの奥にあるミネラルウォーターを手に取った。 
304: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:26:13.10 ID:Bg3Eqo0s0
  
 彼と風花は、そこで問答を止めて、二人一緒にこのみを見た。 
 彼は驚きながらも、ようやく合点がいったという様子だった。 
 このみは、彼の御猪口にミネラルウォーターを注いでいく。 
 例え水でも、こうして御猪口の中に注いでしまえば、日本酒とそれほど区別がつかない。 
305: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:26:43.80 ID:Bg3Eqo0s0
  
 これではれて、全員分の飲み物の準備ができた。 
 全員が自分の御猪口を持ったところで、莉緒がこのみたちをぐるっと見回した。 
 冗談めかして、こほん、と咳ばらいをするふりをしてから、莉緒は話し出した。 
  
306: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:27:09.99 ID:Bg3Eqo0s0
  
 朝方の厳しかった冷え込みもいつしか緩やかになっていて、また一つ季節がめぐり始めた。 
 三月の半ばの、とある日曜日。 
 今日の日もまた、光と音が劇場中に響き渡っていた。 
 観客席に居る、多くの劇場のファンたちが、光り輝くアイドルたちのステージを目撃していた。 
307: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:27:40.07 ID:Bg3Eqo0s0
  
 この日は、このみの復帰後初めての公演だった。 
 久々に腕を通したステージ衣装だったが、不思議と体に馴染んで、心が躍ったのがこのみ自身にもよくわかった。 
 『ピーチフルール』という名前の付いたこの衣装は、桃色が基調となったドレス調のステージ衣装だ。 
 このみがアイドル活動にようやく慣れてきたという頃に出逢った、初めての自分だけの衣装だった。 
308: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:28:26.94 ID:Bg3Eqo0s0
  
 公演は、もう中盤に差し掛かっていた。 
 このみは、『永遠の花』のステージを終えて、風花と桃子の二人と共に舞台袖に戻ってきていた。 
 このみたち三人は、武道館公演の以後も、ユニット『ジェミニ』として時折この曲を歌ってきた。 
  
309: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:28:52.83 ID:Bg3Eqo0s0
  
 すぐ後に別の曲を控えている風花と別れて、このみは桃子と二人で椅子に座った。 
 多くのステージライトに照らされ熱を持つステージの上とは対照的で、この辺りはひんやりとしていた。 
 ペットボトルの水を飲んで、そっと呼吸を整えた。 
 このみが深呼吸をする度に、目の中にステージから見えた景色が浮かんだ。 
310: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:29:27.16 ID:Bg3Eqo0s0
  
 このみが気づくと、あれほど鳴っていた胸の鼓動ももう収まっていた。 
 このみが桃子を見ると、やはり目が合って、それがおかしくて二人で笑った。 
  
 「桃子ちゃん。一緒に歌ってくれて、ありがとう。」 
311: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:29:54.04 ID:Bg3Eqo0s0
  
 このみの言葉を聞いて、桃子は照れくさそうにしながら、それを隠すみたいにタオルで頬の汗を拭いた。 
  
 「桃子も、このみさんと歌えて楽しかったよ。……これからもまた、沢山歌いたいな。」 
  
312: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:30:28.22 ID:Bg3Eqo0s0
  
 このみは、プロデューサーと共に、上手側の舞台袖に居た。 
 この場所からは、袖幕の向こう側に、ステージがよく見えた。 
 隣に居た彼が、このみの手を握って、そっとあるものを手渡した。 
 それは、一つのブローチだった。 
313: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:31:17.95 ID:Bg3Eqo0s0
  
 手で陰を作ると、その玉はもとの色を取りもどした。 
 それは、何色にも染まっていない、どこまでも透明なガラス玉だった。 
 それから、このみはその何の変哲もないガラス玉にそっと指先で触れた。 
 指先の感覚は今までと変わらず同じままで、ただ愛おしかった。 
314: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:31:45.42 ID:Bg3Eqo0s0
 「このみさん。ブローチを着けてみてくれますか?」 
  
 ブローチは、衣装に穴が開いたりしないように、クリップで着けられるようになっている。 
 このみは左胸に手をやって、衣装の生地の境目にある隙間に、そっと留めた。 
  
315: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:32:11.65 ID:Bg3Eqo0s0
  
 次のこのみの出番が、近づいていた。 
 このみは、また後でね、と彼に手を振って、待機場所へと向かった。 
  
 待機場所は、下手側と同じように、衝立と幕で簡単に区切られていて、長机と椅子が所狭しと並んでいた。 
316: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:32:42.91 ID:Bg3Eqo0s0
  
 辺りが暗転するとともに、このみはステージへと飛び出していった。 
 客席には、前の曲の余韻が残っていて、青いサイリウムの色が海みたいにきれいだった。 
  
 このみは、ステージの真ん中で足を止めた。 
317: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:33:22.69 ID:Bg3Eqo0s0
  
 『ねぇ、甘えてみてもいい? 
  この恋が本当だと伝えてみたいの』 
  
 たくさんの温かなステージライトが、このみを照らした。 
318: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:34:07.78 ID:Bg3Eqo0s0
  
 初めて触れたあの日から、冬を超えて、季節はまた一つ巡っていく。 
 袖に降り積もった雪はいつしか融けて、その雫はやがて、温かなこの場所で、ひとつの蕾となった。 
 『いつの日か、花芽吹く春の日を、待っている』 
 ──春の足音が、聞こえた気がした。 
319: ◆Kg/mN/l4wC1M
2020/06/12(金) 01:49:16.35 ID:Bg3Eqo0s0
 以上になります。 
  
 ここまで読んでくださった方の中には、このSSが「白き鶴の如く 馬場このみ」の物語だと気づいてくださった方もいるかもしれません。 
 作中では、カードが実装された2019年2月11日までの日々と、それから少し未来、2019年3月中旬が舞台となります。 
  
320: ◆NdBxVzEDf6[sage]
2020/06/12(金) 02:35:39.47 ID:oyXVuVPy0
 あのSSRのバックになる感じの話か。いいね 
 完結乙です 
  
 馬場このみ(24) Da/An 
 i.imgur.com 
321: ◆NdBxVzEDf6[sage]
2020/06/12(金) 02:36:12.47 ID:oyXVuVPy0
 >>147 
 秋月律子(19) Vi/Fa 
 i.imgur.com 
 i.imgur.com 
  
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